藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

漱石は猫派か? 犬派か?

 


漱石は猫派か? 犬派か?
    1908年、明治41年9月、『吾輩は猫である』のモデルとなった猫が死んだ。漱石『永日小品』の「猫の墓」の章に、次のようにある。「妻はわざわざその死にざまを見に行った。それから今までの冷淡に引き換えて急に騒ぎ出した。出入りの車夫を呼んで、四角な墓標を買ってきて、何か書いてやってくださいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏に此の下に稲妻起こる宵あらんと認めた。」その句が次のものである。


    此の下に稲妻起こる宵あらん


 「稲妻」は猫の目の比喩として用いたもので、漱石らしい感覚の冴えがある。この墓の下に時として稲妻の起こる宵もあるだろうと詠んだ時、漱石の心にはまだ猫が生きていたのである。滅びゆく生命の火花を双の目にともした猫の最後の憐れさが、漱石の眸里にいつまでも焼きついていたに違いない。(和田利男(昭和49)『漱石の詩と俳句』めるくまーる社 pp.25-26。)猫の目は「憐れ」ではないと私は思う。漱石は猫の目に生命への執念のようなものを見出したのではないか。「猫の墓」に次のようにある。死ぬ前に、猫の目は「悄然たるうちに、どこか落着きがあったが、それが次第に怪しく動いてきた。けれども目の色は段々沈んで行く。日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした。」「犬猫」と軽んじられる猫にも、最後の光芒のような輝きがある、漱石は猫をさげすんでなどいない。人間だって偉そうなことが言えたものか、そういう目を漱石は持っている。それが『吾輩は猫である』となった。1914年、大正3年には、「ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚」と詠んでいる。
 同じ大正3年、漱石の亡くなる2年前に、犬のヘクト―が亡くなり、次のような句を漱石は詠んでいる。


   秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ


 『硝子戸の中』に次のようにある。「(注:猫の墓も犬のヘクト―の墓も)硝子戸のうちから、霜に荒らされた裏庭を覗くと、二つとも能く見える。もう薄黒く朽ちかけた猫のに比べると、ヘクト―のはまだ生々しく光っている。然し間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の目に付かなくなるだろう」。「秋の句」は「此の下に」のような鋭さ、異常さは全くなく、極めて穏やかな表現の底に、しみじみとした哀感と、温かい愛情が湛えられている(和田利男(昭和49)p.28)というのは、主観的で、説得性に欠けるきらいがあるが、猫の句は、漱石が『三四郎』を書いたころであり、犬の句は『こころ』執筆の年であるのは、客観的事実であり、その間にいわゆる修善寺の大患があって、「三十分の死」を漱石が体験したのも客観的事実である。二つの句を比べると、後者の方に、優しさのようなものを強く感じるのは私の主観的事実である。
 漱石に猫派、犬派というレッテル張りはそぐわない。どちらに対しても生命への畏敬、哀惜がある。
                        
                                2022.2.14  月

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