漱石と漢詩
軍神 広瀬中佐像
漱石と漢詩
正岡子規の勧めで俳句を作り始めた漱石には、漢詩に導かれて俳句を作りだした面がある。たとえば、次の句である。
馬の背で 船漕ぎ出すや 春の旅
「船を漕ぐ」は、居眠りすることで、馬上で居眠りするとは、杜甫の「飲中八仙歌」の影響ではないかという(和田利男(昭和49)『漱石の詩と俳句』めるくまーる社 p.79)。杜甫の「飲中八仙歌」に次のようにある。
知章騎馬似乗船 知章が馬に乗るは 船 に乗るに似たり
眼花落井水底眠 眼花 井に落ちて 水底に眠る
知章は唐の詩人、賀知章のことで、無類の酒好き、酔って馬の上で眠るのは、船に乗るように危なっかしい。目がかすんで、井戸に落ちて、その水底でも眠っている、という内容である。この俳句は明治24年に作られているが、明治28年には「飲中八仙歌」の 李白一斗詩百篇 を連想させる次の句がある。
飲むこと一斗 白菊折って 舞はん哉
更に
菊の香や 晉の高士は 酒が好き
晉の高士とは、田園詩人の祖、陶淵明のことである。漱石は、イギリスのロマン派詩人、シェリー等が好きであるが、彼らも同じく田園詩人である。漱石の大学の卒業論文も英国の田園詩人についてであった。
水仙白く 古道顔色を 照らしけり
「古道顔色を照らす」は「昔の忠臣義士たちの節義を全うした様子が眼前に浮かんでくる」という宋末の忠臣、文天祥の「正気歌」に 古道照顔色 とあるのに倣ったものであろう。文天祥の「正気歌」は、元軍にとらえられた文天祥が節を曲げず、投降しなかったことを詠じたもので、藤田東湖や吉田松陰も絶賛している。敵に対する徹底抗戦、国粋主義の歌である。日露戦争時、旅順で戦死した海軍中佐広瀬武夫も「正気歌」を作ったが、漱石は「艦長の遺書と中佐の死」で酷評している。
露骨に言えば、中佐の死は拙悪と云わんよりむしろ陳套を極めたものである。(中
略)あんな詩で中佐を代表するのが気の毒だと思う。
当時軍神として全国民に崇拝された広瀬中佐に対して、このような感想を発表するのは、世人の強い反発を招くかもしれなかったのに、漱石はその詩に仮借なき批評を加えている。偽善を嫌う真っ正直な性格がよく窺えると識者は言う(和田利男(昭和49)pp.83-84)。漱石は、不正には、ぶるぶると震えながら抗議するような気性の人だったように思う。
2022.2.16 水