藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

漱石と意識・無意識


漱石と意識・無意識
 1914年、大正3年の11月14日、岡田耕三宛の手紙に「意識が世の凡てであると考えるが同じ意識が私の全部とは思わない。死んでも自分はある。しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考えている。」12月26日(木)先週の木曜会と似た話題が出る。「意識がすべてではない、意識が滅亡しても、俺と云うものは存在する。俺の魂は永久の生命を持っている。だから死は只意識の滅亡で魂がいよいよ絶対境に入る目出度い状態である。」(漱石研究年表 荒正人著 小田切秀雄監修 集英社 p.780  今田康子(令和2)p.126)。意識が滅亡しても魂は存在し、絶対境に入るというのは、『荘子』至楽篇などにもある考えであるが、漱石も意識や無意識には関心があり、明治37年、藤村操の自殺の年には、七五調の五十二句から成る長編詩「鬼哭寺の一夜」を書いている。詩の最初に堂内の不気味な描写があって、次いで綿々と訴える女の恨みが綴られ、


   塚も動けと泣く声に
   塚も動きて秋の風
   夜すがら吹いて暁の
   茫々として明にけり
   宵見し夢の跡見れば
   草茫々と明にけり


 で結ばれる。明らかに謡曲の語り口である。「茫々として」は謡曲「隅田川」の「東雲の空もほのぼのと明け行けば、跡絶えて、わが子と見えしは塚の上の草茫々として」から取ったものであろう(和田利男(昭和49)『漱石の詩と俳句』めるくまーる社 pp.141-143)。漱石は、熊本の第五高等学校に在任中、謡曲を習い始めている。謡曲の教養のもとに、夢の中の亡霊をうたうのが「鬼哭寺の一夜」である。
 このような夢の中の亡霊などの怪しげなものどものことと言えば『夢十夜』である。「第三夜」では六つになる、目のつぶれた自分の子を背負っていて、左右は青田で、細い道を歩く。
子が言う。


 「御前がおれを殺したのは今から丁度百   年前だね」
 自分はこの声を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、此の 
 杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、忽然として頭の中に起こった。おれは 
 人殺しであったんだなと始めて気が付いた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重  
くなった。


 荒正人(『夏目漱石』漱石の文学)はこの「第三夜」をフロイトの「父親殺し」に結びつけて、人間の罪悪感の根底が「父親殺し」であり、それが「第三夜」に現れているとし、漱石が父親を嫌っていたことと関連付けている。(夢では父と子が逆転しているとする。)そういう解釈を荒っぽいと嫌う人もいる(和田利男(昭和49)pp.145-146)。すべてをフロイトで説明するのは、説得性に欠けるであろう。えてして、西洋や英語の学問は、はしかの伝染のように、トレンドがあり一過性のものが多い。フロイト精神分析学による文藝作品の解釈もそうであろう。それを、欧米支配の表れの一つとみるのは、あながち間違いではないように思う。西洋文学研究者は、漢字が書けず、ひらがなばかりの文章を書くというのを聞いたことがある。英語の応用言語学の真似をしている日本語教育研究者、実践者もひらがなばかりの文章を書く。彼らが滑稽なのは、カタカナばかりの専門用語の翻訳を使いながら、英語で書かず、日本語で書くことである。対象はいつでも初級日本語教育で、上級日本語教育でないのが、教養のなさを表している。厳しく言えば、彼らは初級日本語教育の充実によって、日本人のやらない仕事をするために研修生制度でやってきた外国人をテイム  tame(飼いならす) してドメンティケイション   domestication (家畜化する)するための介助者、幇助者となっている。日本語を外国人に教える日本語母語話者は、外国語を読めるようになった日本語母語話者に限った方がいいであろう。日清、日露戦争の後、日本語学習ブームが高まった清国へ、多くの日本人(ほとんどが中国語ができなかった)が日本語教師として赴いたが、清国で暴力、暴言事件を起こした日本人日本語教師が多数いたことを知るべきである。


                   2022.2.17   木

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