漱石と本歌取り
王維 「竹里館」
独坐幽篁里、弾琴復長嘯、深林人不知、明月來相照。
一人、竹林の中に座り 琴を弾いて、また長くうそぶく 深林は人気がなく、明月が来て照らす
漱石と本歌取り
ものいはず童子遠くの梅を指す (明治32年)
この俳句は杜牧の「清明」の漢詩の後半 「借問す 酒家はいずれのところにかある 牧童はるかに指さす 杏花の村」の本歌取りである。(半藤一利(1997)『漱石俳句を愉しむ』PHP新書 p.46)。
累々と徳孤ならずの蜜柑哉 (明治29年)
『論語』里仁篇の「徳は孤ならず必ず隣あり」を踏まえて、いっばい蜜柑のなっている風景を詠んでいる(半藤一利(1997)p.133)。「累々」は重なっている、積み重ねているという意味。「累卵の危うさ」とは「卵を縦に重ねるような危うさ」のことである。
漱石は王維が好きで、『草枕』の東洋の詩歌論のところでも、王維の「竹林館」と題する有名な作を引き合いに出している(和田利男(昭和49)p.225)。
独坐幽篁里、弾琴復長嘯、深林人不知、明月來相照。只二十字のうちに優に別乾坤
を建立して居る。此乾坤の功徳は、「不如帰」や「金色夜叉」の功徳ではない。汽
船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすりと寝込
む様な功徳である。(太字、筆者。)
一人、竹林の中に座り 琴を引いてまた長くうそぶく 深林は人気がなく明月が来て照らす とは、東洋的な静寂、利害を超えた自然との一体感を表している。
次の漱石「春日偶成」其八は、上の詩を連想させる。
樹下開襟坐 樹下 襟を開いて座す
吟懐與道新 吟懐 道とともに新たなり
落花人不識 落花 人識らず
啼鳥自残春 啼鳥 おのずから残春
幽篁と樹下 月と鳥 夜と昼 といった違いはあるが、本歌取りと言ってよいでろう(参考 和田利男(昭和49)pp.228-229)。
漱石を理解するには、漢学の教養が必要である。漱石の教養の深さに驚きを感じる。そして、『明暗』など読んでいると(今日、110回まで読んだ)、まったく古さを感じさせない。人間のエゴの心のうち、心の動きをリアルに描写している。そして、明と暗の両方を、それらに即しつつ、上から目線では描写していない。これが則天去私か?
2022.2.18 金