藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1915年、死の前年に京都の山崎を訪れた漱石 山荘の命名に王維の詩を候補として挙げる

  アサヒビール大山崎山荘美術館


1915年、死の前年に京都の山崎を訪れた漱石 山荘の命名に王維の詩を候補として挙げる
 夏目漱石は、生涯に4度、京都を訪れている。大正4年(1915)、最後に訪れた際に大山崎山荘の持ち主である加賀正太郎と出会い、加賀の山荘を訪れた。この4度目の京都への旅は、体調の思わしくない漱石の療養の為に京都へ誘ってくれと妻鏡子が友人で画家の津田青楓 に頼んだ旅であった。
 漱石に、若くして家督を継いだ関西の実業家、加賀正太郎(1888-1954)を紹介したのは祇園大友の女将磯田多佳 で、漱石の京都滞在を知った加賀が多佳に頼んだものではないかと思われる。当時まだ20代だった加賀は、漱石を建設中の山荘に漱石を招待し、更には大文豪漱石に山荘の命名をお願いした。
 漱石一行は、磯田多佳らと共に春の山荘を訪れた。京都から山崎まで車でやってきて(入口の大山崎町の説明には汽車とあるが、展示室では車とある)、山の登り口から漱石夫妻は山荘まで籠で上がった。かなりの急な坂道なので籠と一緒に歩いた他の面々は大変だったことであろう。七条の京都駅から帰京する漱石夫妻を加賀や磯田多佳は見送ったようである。
  後日、そのお礼の手紙が漱石から加賀に届く。そこでは留守中の処理に追われて依頼された山荘の名前をまだ考えていないと詫びている。気になってはいるけれど・・・というところだろうか。
 その10日ほど後に、漱石は山荘の名前の候補を14も書いて送っている。漢学の文献をあたって考えたものですが、気に入らなかったら採用しなくていいからとも書き添えている。
  1915年4月18日と1915年4月29日の2通の書簡が軸と巻子となって残されている。
 ところが、加賀は漱石に頼んで候補を14も書き送ってもらったのに、しっくりと来なかったのか、全てボツにして「大山崎山荘」と名付けた。普通は大文豪の夏目漱石に命名してもらったらそれつけるだろうに。(下記、閲覧)

 漱石の14の候補には、二つ、王維の詩から採った候補の「曠然荘」(王維の詩に「曠然蕩心目」とある。)「如一山荘」(王維の詩に「「雲水空如一」とある。)があった。(和田利男(昭和49)p.232。)
 山崎は天王山があり、秀吉と光秀の山崎の決戦で有名な地。「大山崎山荘」は現在、 アサヒビール大山崎山荘美術館となっている。漱石は、おとづれた際に、 


    宝寺の隣に住んで櫻哉  


 という句を作っている。宝寺とは、京都府乙訓郡大山崎町大山崎にある真言宗智山派の寺院。山号は天王山。本尊は十一面観音。天王山の中腹にある。聖武天皇の勅命を受けた行基による開山と伝えられる。(Wikipedia 閲覧。)  
 現在、山崎から天王山、天王山から宝寺へ、更に上へと、ハイキングコースとなっている。


                             2022.2.19    土

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