藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1892年(明治25)の漱石の俳句 子規への友情・配慮



 子  規   漱  石


1892年(明治25)の漱石の俳句 子規への友情・配慮
 もともと俳句を始めたのは子規との交流に端を発する。1892年(明治25)漱石は次の二句を作っている。


  鳴くならば満月になけほととぎす 

        

   学年末試験で落第した子規に、大学を  
                         

   やめないで「卒業するが上分別と存
                        

   候」と書いた7月19日の手紙にある
                        

   句。坪内稔典編(1990)p.13


  病む人の巨燵(こたつ)離れて雪見か

   な            

     子規宛の12月15日の手紙にある

    句。内稔典編(1990)p.13



 1889年(明治22)1月ごろ、漱石は正岡子規と親しくなっている。子規の『七草集』の批評文に漱石と署名している(三田村信行(2019)p.395)。すでに子規は体を蝕まれていて、漱石は子規を励ましたり、いたわったりしている。この年の2月11日に大日本帝国憲法が公布される。
 1890年(明治23)10月、教育勅語が発布され、翌1891年(明治24)1月19日、内村鑑三不敬事件が起こる。天皇の宸筆に内村が頭を下げなかったようだという主観的な決めつけによる。日本人は宗教に寛容だというが、他の一定の基準、例えば「忠」などから、はずれると極めて不寛容となる。山本七平氏の言辞である。すでに天皇崇拝のエトスが築かれつつあった。
 1892年4月、漱石は北海道に送籍している。兵役を逃れるためである。当時の北海道民男子は、屯田兵がおり、北海道民は国防に従事しているとの認識から、兵役が免除されていた。国民の間には国家への「客分意識」(俺には関係ないという意識)も多く存在した。この年の9月14日に漱石は文部省令によりイギリスに向かい、9月26日にロンドンに到着し、父の死を知る。


                        2022.2.21  月

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