藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1895年(明治28)の漱石の俳句   事跡  時代背景



1895年(明治28)の漱石の俳句  事跡  時代背景
1895年の漱石の俳句で目に留まるのは以下のものである。


 見上ぐれば城屹として秋の空       
  この年、四月から漱石は一年間、愛媛県尋常中学校  嘱託教員として松山に滞在した。       坪内稔典編(1990)p.16 


   御死にたか今少ししたら蓮の花    「弔古白」と前書。御死にたかは、死なれたかという意味の松山弁。古白は四月に自殺した子規の従弟、藤野古白のこと。坪内稔典編(1990)p.19


 あんかうや孕み女の釣るし斬り     釣るし斬り 鮟鱇を掛け吊るしてさばくこと。                                                                    坪内稔典編(1990)p.27 


 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉    


  
 「見上ぐれば城屹として秋の空」 屹然は山のそびえたつ様子、人の孤高を表す言葉。一人、異郷の地、松山で孤高を通す漱石の心がうかがえる句。「あんかうや孕み女の釣るし斬り」ぎょっとするような、擬人的な句。「やすやすとなまこの如き子を産めり」という漱石の句を思わず連想する。鮟鱇を妊婦に喩えたり、子をなまこに例える漱石は、人とモノ、動物を連続で見ていたのか。「叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉」俳味、諧謔の句。漱石のユーモアがよく出ている。これも木魚を人の禿頭に喩えているととることもできる。禿頭の口から蚊が出ると考えれば、意外性もあり、おかしくて笑ってしまう。「禿頭叩きて蚊が出る木魚哉」 
 1895年、明治28年の漱石は、上記のように、4月に松山に教師として赴く。12月には、兄の知人、中根重一の長女、鏡子と見合いし、婚約している。
 この年、1月には樋口一葉が「たけくらべ」を発表。4月17日、日清講和条約調印。前年からの日清戦争を詠った句はない。文学に政治は似合わない、文学が政治を扱うのは野暮という藤原定家以来の文学についての日本的伝統観念の表れか。「叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉」の句が一番、面白い。素人受けする駄句と小室善弘(昭和58)はバカにするが。あんたら玄人ぶった俳人はイヤらしいから嫌いだ。蜀山人に同じ句があるという。それでオリジナリティーがないと認めないのだろう。俳句第二芸術論を思い出す。所詮、五七五、誰でもつくれるじゃないかと。漱石は『草枕』で述べるように、自分の意識したことをすぐ五七五で言えばいいという。それが自分を見つめること、自覚になるというようなことを言っている。                                


           2022.2.22  火

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