藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1896年(明治29)の漱石の俳句  擬人の句


1896年(明治29)の漱石の俳句  擬人の句
 
 物言はで腹ふくれたる河豚(ふくと)かな


 永き日や欠伸(あくび)うつして分かれ行く 「松山客中虚子に別れて」と前書。客中は
                       旅にあるあいだ。坪内稔典編(1990)
                                                                                   p.50


  累々と徳孤ならず蜜柑哉          徳孤ならず 『論語』里仁篇「徳は弧な
                       らず必ず隣あり」


 どっしりと尻を据えたる南瓜(かぼちゃ)かな


  「物言はで腹ふくれたる河豚(ふくと)かな」「もの言わざるは腹ふくくるわざなり」(『葉隠れ』)を連想する。フグの腹の膨れているのを、言いたいことを言わないからかと擬人的に詠んでいる。「永き日や欠伸うつして分かれ行く」高浜虚子との交流を詠う。漱石が松山から熊本に行くときに、一緒に道後に行ったり宮島に寄ったりしたときの句とのこと。松山から二里ばかりの高浜という海岸の船着き場まで漱石が虚子を送り、船を待つ間、漱石の提案で互いに短冊に句を書いたが、漱石が短冊に書きつけ虚子に与えた句という。「欠伸うつして」というところに、二人の隔意のない交友が表れている。諧謔が表れている(小室善弘(昭和58)p.46-47)。「累々と徳孤ならず蜜柑哉」蜜柑の集まっていることから『論語』里仁篇「徳は弧ならず必ず隣あり」を連想するのが斬新である。松山の蜜柑であろう。「どっしりと尻を据えたる南瓜(かぼちゃ)かな」擬人的な句。かぼちゃを「どっしりと尻を据えたる」と表現するのは、視覚的に新鮮で、漱石が絵をよく描いたことを思い出させる。かぼちゃの姿を「尻を据えたる」と擬人的に、視覚的に表現するのが、新奇で諧謔的である。


 1896年(明治29)の漱石は、4月に熊本の第五高等学校に赴任し、6月8日、中根鏡子と結婚している。11月23日には樋口一葉が亡くなっている。「永き日や欠伸うつして分かれ行く」別れの悲しさをユーモアに変える漱石の諧謔性がよく表れている句である。漱石は気難しくあり、諧謔的でもあり、照れ屋でもある。懐が深い人である。漱石の多面性は現在になっても、古くなく、輝きを失わない。日本人の伝統の連続性と西洋近代、西洋近代の真似を外発的にすることの危うさの是非を我々に問いかけ続けている。この75年間なら、アメリカの真似をすることへの懐疑の問いかけである。


                             2022.2.23  水

×

非ログインユーザーとして返信する