藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1898年(明治31)-1899年(明治32)の漱石の俳句


1898年(明治31)-1899年(明治32)の漱石の俳句
1898年
    行く春や猫うづくまる膝の上


1899年
    秋はふみわれに天下の志


    むっとして口を開かぬ桔梗かな


    安々と海鼠の如き子を産めり



 漱石にとって俳句とはいかなるものであったか『草枕』に次のようにあるのが、最もよく言い表している。「まあ一寸腹が立つと仮定する。腹が立った所をすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちが既に他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。一寸涙をこぼす。この涙を十七文字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七文字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事のできる男だと云う嬉しさだけの自分になる。」 その時、その時の感興を十七文字にする。すると、自分を客観視できる。泣くこと自体ではなく、泣く自分を自覚する、そこに喜びがある、というのだから、漱石は「近代人」である。十七文字が自分の感情、自我の「意識」の自覚だというのだから。ただ、現実には、十七文字も現実の写生に過ぎない場合もある。 「行く春や猫うづくまる膝の上 」などはそうであろう。
 しかし、「内観表白」の句もある。「むっとして口を開かぬ桔梗かな」がそうである。「桔梗」も漱石の「内面」によっていろいろな姿を現す。(以前、取り上げた句では「桔梗」を仏性、無垢なものの象徴としていた。)また、江戸時代の武士のような「天下、国家」を考える、中国の士大夫的なエトスもある。「秋はふみわれに天下の志」名主の家に生まれた漱石は、江戸の軽妙洒脱な戯作文学や落語の雰囲気に染まっていたが、他方、武士的な天下、国家を考える雰囲気も知っていたから、こうした使命感のようなものも持っていたのであろう。それを捨てなかったのが、漱石を重層的にしている。
 「安々と海鼠の如き子を産めり」1899年(明治32)5月、長女筆子が生まれた。生命への畏怖、驚きにも似た感情が表現されている。子を「海鼠」と表現するのは新奇である。


   1899年 3月  義和団の乱。10月 ボーア戦争起こる。帝国主義が跋扈する。6月、漱石は第五高等学校英語科主任になる。翌、1900年、明治33年、漱石はイギリスに留学する。さて、どんな句を詠んだだろうか。


                               2022.2.25  金




 

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