藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1900年(明治33)―1902年(明治35) の漱石の俳句 漱石イギリスへ留学す

 ロンドンから友人へ漱石が書いた絵葉書


1900年(明治33)―1902年(明治35) の漱石の俳句 漱石イギリスへ留学す


 1900年
     阿呆鳥熱き国にぞ参りたる
     稲妻の砕けて青し海の上
     空狭き都に住むや神無月


 1901年
     吾妹子(わぎもこ)を夢見る春の
     夜となりぬ


 1902年
    筒袖や秋の柩にしたがはず


  1900年、5月12日、文部省よりイギリス留学を命じられた漱石は、9月8日、横浜からイギリスに向かう。「阿呆鳥熱き国にぞ参りたる」「稲妻の砕けて青し海の上」は香港から、高浜虚子宛に送られたはがきに記されたものである(坪内稔典(1990)p.122)。両句とも香港の海の上での感慨であろう。「空狭き都に住むや神無月」10月28日にロンドンに到着した漱石が最初に感じたのは、ロンドンは「空が狭い」ということであった。それだけビルが高く、多いと感じたということであろう。
 1901年、留学も一年たつと、虚子宛に「吾妹子(わぎもこ)を夢見る春の夜となりぬ」と葉書を送り、その添え書きに「もう英国も厭になり候」と書くように(坪内稔典(1990)p.125)産業資本主義の喧騒のロンドンにすっかり嫌気がさした漱石であった。一つは留学支給金が少なかったこと、また漱石が背が低く(148センチぐらい。当時の日本人の平均身長は162センチぐらい)自己卑下し、差別にもあったことが影響しているが、懊悩の理由は根本的には、文学観念の日本と西洋の違いにあり、漱石は、漢籍や俳句の諧謔による文学観と西洋の文学観の相違に苦しみ、「他人本意」に西洋文学観に合わせるのを拒否し、どうにも行き場を失くし、漱石、発狂すといううわさも流れた。
 1902年、12月1日付の虚子宛手紙に「倫敦にて子規の訃を聞きて」と前書して、記された句「筒袖や秋の柩にしたがはず」。子規は9月19日に亡くなった。筒袖は洋服のこと(坪内稔典(1990)p.128)。自分はロンドンで洋服を着て生活していて、子規の葬式にも参加できなかった、という慚愧の念を表した句。写生派の子規と内面表白派の漱石は、俳句への考えは異なっていたが、互いに相手を理解し、子規は、漱石の俳句の特色を①意匠の斬新さ②「奇想天外」な発想③「滑稽思想」と簡潔にまとめている(張建明(2001)『漱石のユーモア <明治>の構造』講談社選書メチエ pp.40-41)。子規は漱石にとって、俳句の手ほどきをしてくれた人であるとともに、自分のことをよく知っていてくれる親友であった。漱石も子規とは争わないようにして、気を使っているところがある。 
 漱石が、へらへらとイギリス人、西洋文学に媚びへつらわなかったのは、立派である。研究者、学者でも欧米理論に媚びへつらう者は、昔も今も跡をたたない。いや、日本自体がこの75年間、アメリカにへらへらと謎のほほえみを浮かべて媚びまくってきて、この拝金主義社会が出来上がったのだ。過去に学ぼう。漱石に学ぼう。そこから新しい時代を作っていくしかない。教養を持たなければならない。そうしなければ、戦争は繰り返し行われる。
                           
          2022.2.26  土

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