藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1905年(明治38)―1907年(明治40)の漱石の俳句

      1904(明治37)―1905年(明治38) 日露戦争




1905年(明治38)―1907年(明治40)の漱石の俳句


1905年   朝顔の葉影に猫の目玉かな


1907年   時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり
      桔梗活けて宝生流(ほうしょうりゅう)の指南かな 


 「朝顔の葉影に猫の目玉かな」写生的な俳句。カメラでワンショット、SNSにアップという感覚の句である。『草枕』で述べたように(既述)、漱石にとって俳句は、その時その時の心情や事実を活写する道具であった。内観表白もあるが、基本はそうしたものだから、駄句も多いのだろう。しかし、それは漱石のワンショットの意図とは異なるのだから、漱石の知ったことではない。
 「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり」。時鳥が鳴いている、外へ出てもっと声をよく聞きたいが、厠の中で用足しをしているので、外へ出られない、という句。西園寺公望首相(当時)の主催した文士の会への欠席をこの句を添えて伝えた。当時、漱石は『虞美人草』を執筆中で忙しかったという理由もあろうが、元来、そうした政治的なにおいのする会は好まないのであろう。文部省が博士号を送りつけて来た時の、「学者貴族」の増えるのに疑問を呈し、拒否したのと同じ考えであろう。「桔梗生けて宝生流(ほうしょうりゅう)の指南かな」。1907年11月から、宝生新に漱石は謡曲を習い始めている(坪内稔典(1990)p.150)。 
 1905年1月、『ホトトギス』一月号に『吾輩は猫である』を発表。12月、四女愛子誕生。8月、孫文、東京で中国革命同盟会を結成。9月、日露講和条約調印。
 1906年4月、『坊ちゃん』、9月『草枕』を発表。3月、島崎藤村『破戒』刊行。神社合祀始まる。
 日露戦争の勃発は、満州の覇権争いに端を発するが、もともとは日清戦争後の三国干渉への怨念、とりわけ仕掛け人のドイツよりも、ロシアを敵視した国民感情(「臥薪嘗胆」)に胚胎する。1902年に日英同盟を結び、戦争準備をして臨んだ日露戦争は引き分けのような形となり、ポーツマス条約で戦勝賠償金をとれなかったために日比谷暴動事件が起こる。戦争は利で起こる。
 ロシアがウクライナに侵攻したのは、ウクライナがNATOに入ると、NATOとの緩衝地帯がなくなり、脅威となるからである。ウクライナの中にも親ロシア派と親ウクライナ派があり、確執がある。最後は武力で決着をつけようということである。プーチンはカリスマ性、指導力の卓越した「皇帝(ツアー)」に擬せられるかもしれないが、ロシア人もウクライナ人も望まぬ戦争をいつまで続けられるだろうか。ウクライナのゼレンスキーも混乱を招いた無能な大統領として歴史の断罪を受けるのではないだろうか。指導者の質の低さが民衆の生活を破綻させる例のように思う。早く戦争やめろ!プーチン、力の信仰、やめろ!アメリカもNATOも世界新構想を出せ!



 ロシアとウクライナが ベラルーシで停戦交渉を始めることに合意した(午後2時現在)。国家を超えた発想が必要だ。プーチンは喜劇役者上がりのゼレンスキー大統領を小ばかにしていたという。ゼレンスキーもバイデンに期待しすぎだ。プーチンはNATOのミンスク合意違反を執拗に繰り返す。どいつもこいつも勝手なことを言っている。とにかく戦争は止めて!!!!!!!


  テレビ朝日 午後6時 ゼレンスキー大統領が残って戦うと言ってから、ゼレンスキーの評価がウクライナで上がっていると、キエフ在住の日本人(高垣典哉氏。インタビューにオンラインで参加。)が伝えていると報道。高垣氏もヘリコプターのパイロットなので、戦いに参加するという。テレビ朝日、無責任な報道をするな。戦いに参加することなど報道するな。ゲスマスコミはいつでも高みの見物、視聴率が上がればいいと無責任な報道をくり返す。よく考えて報道しろ!!


                       2022.2.28  月

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