藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

漱石のユーモア    張建明(2001)


漱石のユーモア     張建明(2001)『漱石のユーモア』講談社選書メチエ
  張建明(2001)は漱石のユーモアなどについて次のように述べている。
 『吾輩は猫である』は伝統的な自我の表現であり、『明暗』は近代的な自我の表現である(pp.32-33)。
 漱石の笑いの方法は、①江戸的な方法によるユーモア(江戸的な文学・文芸。戯画化による笑いや擬人化による笑い、俳諧等。)②漢詩や英文学などの教養を広く用いたユーモア――の二つに分かれる(p.213)。漱石は、江戸っ子という価値観に基づいて笑いを表現した(p.205)。
    漱石の俳句の特色は子規の評によると、①意匠の漸新性②「奇想天外」な発想③「滑稽思想」である(p.41)。
 中国の魯迅は、封建的な伝統と戦いながら、近代的自我の創出のために血まみれになっていた(p.207)。封建的伝統と戦ったのが、魯迅であった。他方、漱石は国中に氾濫する西洋文明の中でいかに自己を保つかということに苦闘していた(p.207)。西洋化しつつある日本と戦ったのが漱石である魯迅(1902年~1909年、日本留学。)は一時、漱石の旧居に五人で住んで、「伍舎」と名付けた。『吾輩は猫である』を愛読した。幼年時代を追憶した魯迅のエッセイ集『朝花夕拾』(朝咲いた花の命を哀惜し夕方に摘む)は、魯迅や厨川白村の影響であろう。厨川白村は漱石の『虞美人草』の作中人物のモデルの一人とされる。東京帝大大学院で漱石の指導で「近代に現れた恋愛観の研究」のテーマで研究し、漱石の後、第五高等学校教授として赴任している。魯迅は厨川著『苦悶の象徴』を翻訳し、大学で小説創作のテキストとして使用した。苦悶の象徴も文学たりうるという厨川の主張に賛同したものと考えられる。ちなみに、当方の修士論文名は「魯迅と厨川白村-厨川の文芸観・社会文明批評の移入とその展開-」(拙著(2011)『明治・大正の日中文化論』所収)。主観的批判だけして、権威主義的、権力主義的な教員の多い中で、なんとか後期博士課程に進んだ。博士号はとれなかったが、なんとか常勤の職を得たとき、私は四十三歳であった。それから二十二年、地獄の日々を過ごした。私は忍耐の意味を知った。


 漱石のユーモアは、江戸文藝の影響が濃厚で、落語の影響もあり、長兄が遊びで身を持ち崩したりしたことの影響もある。もともとは、おおさっばで単純、軽妙洒脱な、弱者への同情心あふれる江戸っ子気質の人であった。学校を一度、留年してから、心を入れ替えて勉強に励み、常に首席を通した。英国留学に白羽の矢が立ったのもやはり、高学歴で非常に優秀であったからである。明治の日本は、お雇い外国人に変わる、コスパのよい「西洋文明・西洋文化の伝道者」を必要としていた。日清戦争後まで、国立大学と言えば「帝国大学」(東京帝国大学)と札幌農学校だけであったから、その権威も絶大なものがあった。帝国大学からは、ほかに岡倉天心などが出て、札幌農学校からは内村鑑三が卒業している。彼らは明治の青春の象徴であったと言えよう。もっとも、漱石の場合は44歳で帝国大学教授になる道を捨てて、朝日新聞社に入社し、作家の道を歩むのであるから、かなりの変人である。漱石への興味は尽きない。


                          2022.3.5  土

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