藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

日本語の話者中心性について

日本語のわからない人 手を挙げて その日本語がわからない
 ―日本語非母語話者向け日本語学校の入学式での一コマ―


日本語の話者中心性について
 日本語の話者中心性というのは次のような例のことである。


  私は先生に~と質問された。


 英語や中国語なら、「先生は私に~と質問した。」と表現するであろう。
日本語には、 一人称代名詞>人間名詞>無生物名詞 といった名詞のランキングが存在している(張麟声(2001))ので、こうした違いが生まれてくる。日本語が話者中心表現を好むのに対して、英語や中国語は動作主中心表現を好む傾向がある。「わたし、男がプロポーズしてきた経験、今まで一度もないわ。」より「わたし、男からプロポーズされた経験、今まで一度もないわ。」の方が日本語的表現である。


 * 晩はその日に先生が教えた〇〇語を復習します。


 は、文法性 grammaticalness =「正誤」で言えば許容範囲とする人もいるだろうが、「適切さ」appropriateness  という点からは誤用となる(* は誤用を表す)。「晩はその日に習った〇〇語を復習します。」としなければならない。言語には文化が絡んでくるから、言語学習は難しい。厳しい人は、言語学習は tame(飼いならし)と dometiscation (家畜化)だと言う。
 「習う」=「教えてもらう」=「教わる」という点から考えれば、「方向性のある動詞」について、一般的には、「受ける」類の動詞(ex.教わる、もらう、借りる、預かる etc.)の方が日本語的であり、「与える」類の動詞(ex.教える、やる、あげる、貸す、預ける etc.)の方が、中国語的、英語的表現である(拙著(2007)p.96)。
 誤解してはいけないのは、日本語表現が話者中心性を特徴とすると言っても、日本人が自己中心的であるということではないということである。バカはそこら辺を混同して、単なる言語表現の習慣的事実を「〇〇語の表現から見た〇〇人の思考様式について」などというトンデモ論を書いている。サピア・ウォーフ仮説の乱用であろう。このことについては、次回、英語の否定疑問文とそれに対応する日本語の点から述べてみたい。


                                2022.3.10   木

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