藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

言語と思考

  こんなのもあるぜ。まだはもうなり、もうはまだなり。株の言葉だ。



言語と思考
 言語と思考というのは鶏が先か卵が先かと同じで、どちらが先ともいえない。言葉が初めにありき、これはキリスト教の立場である。「光あれ、と神が言った。それで光が生まれた。」聖書。言葉、それも音声としての言葉を大事にするのが、キリスト教を基とする欧米思想の根底にある考えである。それが、学問の世界では、インド・ヨーロッパ語族の祖語の研究などと言って、一般民衆からかけ離れた研究をしていたから、フランスのソシュール通時的、歴史的研究に対する共時的研究の必要性を力説して、現在の語学教育はその影響て゛、会話が中心である。もっとも、それぞれの国に語学学習の歴史があり、日本では中国語の漢文を訓読していく勉強法がかつて中心であったから、荻生徂徠のように従頭直下法で、頭から漢文を中国人のように読んでいく(しかも音は中国語の原音で)原語主義を唱えた人もいたが、基本は、日本語流の漢文読み下しによる翻訳が語学学習の中心であった。それが蘭学、英語学から今でも受け継がれているのが英文和訳中心の英語学習法で、それはそれで、英語で書かれた専門知識(医学や機械工学などの)を得るのを目的としているのだから問題はない。会話がしたければ、会話を勉強したらいいだけの話である。もっとも、読む・聞く・書く・話すの四技能は学習者のニーズによるから、凡て均等に学ぶ必要はない。そこらへんがよくわかっていない馬鹿が中心になって、大学入学試験委員会を牛耳っているから、おまけに何でもいいから新しいことをして業績を上げたい、省庁の中で一番、できの悪い(国家公務員試験で一番できが悪いのが行く)文科省(東大でていても劣等感が強く陰湿な連中が上にいる。)が背後にいるから、日本の英語教育は堕落と混迷を極めている。
 閑話休題、西洋では音声中心の言語観なのだが、中国では漢字という文字言語中心の言語観である。科挙という官吏登用試験の影響が絶大で、文字と出世は一体であった。日本ではひらがな、カタカナがあり、漢字もあるので、音声言語と書き言葉言語は臨機応変に使い分けられてきた。韓国は官の世界は漢字、民の世界は諺文(オンモン)以降は話し言葉が中心であろう。
 言語と思考という命題自体、二項対立的で欧米臭が強い。サピア・ウォーフ仮説からは「言葉がなければ概念なし」となり、ジョージ・オーウェルの『1984年』やソシュール学者、丸山圭三郎の「肩こり」という言葉なければ肩こりなし、「虫歯」という言葉なければ虫歯なしという考えも生じるが、理屈上はそうだろうが、極論である。「肩こり」という言葉がなくても肩こりという症状はあったであろう。「自覚」したかどうかの差だともいえる。
 言語心理学者、ピアジェによると、脳が行う数学の計算も「運動」である。言語は実は思考だけでなく、行動とも関係が生じてくる。行動主義言語学。そして、脳の行う編集作用によって、記憶が生じ、記憶の生成のために言語が深く関係しているということになる。動物も動物なりの「言語」を持っていて、言語とは形式と内容を持つ、シニフィアンとシニフィエ、意味するものと意味されるものを持つものであるということになる。それに、コミュニケーションのツールとしての言語がクローズアップされて、現在の語学教育は、コミュニケーション中心・会話中心のものとなっている。しかし、コミュニケーションとは何だろうか。最近は、自己主張のできる語学教育ということも言われる。エゴ剥き出し讃美かい?
結局、欧米支配は言語教育にも色濃く反映しているのだから、言語教育でも比較文化学的に和・洋・中で考える視点を大切にしたいと思う。日本語と外国語の対照研究を在野の立場から行うべきである。「学問」は「すでに決まったお作法」でやるから、もういい。うんざりだ。23年、いたから、ああいう世界はもういい。一に従順、二に優秀なのが地位を得て金を得る世界だ。テレビに出てるのも広告塔だ。
 馬淵睦夫という人のゼネコン元凶説が今回のウクライナ侵攻について説得ある説明をしているようだ。本を読んでみようと思う。ティックトックで最近、よくアップしている。馬淵氏は元ウクライナ大使、防衛大学校元教授。


                               2022.3.12  土

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