藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

「コーヒーでも飲みませんか? 」  えっ、先生、どうして「でも」と言うんですか。

         


「コーヒーでも飲みませんか? 」  えっ、先生、どうして「でも」と言うんですか。
  外国語母語話者に日本語を教えていると、こうしたことをよく聞かれる。「コーヒーを飲みませんか?」でいいではないですかと。「でも」は日本語学で、とりたて詞の中の「選択的例示」と言われるもので、「ある範疇のものから一つを選択して例示すること」を指す。この場合、「飲み物の中でコーヒーを選択して例示する」という意味になる。どうして、こういう言い方をするのかというと、ことばが単に論理性を持っているだけでなく、習慣性や婉曲性というものを表現するものであることが関係している。日本語母語話者は「など」を使った「婉曲」な言い方を好むのである。歴史的にいつごろからこういう言い方をしているかは、通時的研究者に聞くしかないが、現在のことばの研究、とりわけ日本語教育は共時的研究が中心であるから、歴史的な質問に答えられる教師は皆無と言っていいであろう。
 「など」以外に「なんて」「なんか」などのとりたて詞も英語や中国語では表現されないことが多い。文法化されていないと言ってもいい。次のような例である。


 ・「わたしなんかはこう思いますが、~」  

   否定的特立・疑似的例示
 ・「田中さんなんて誰にも相手にされてい

    ない。」  〃
 ・「授業中は、私語などもってのほかで

   す。」     〃


 日本語は英語に比べて、場面依存性、状況依存性が高いので、文法化して表現として明示することが少ないと言われる(かつては、だから日本語は非論理的だと学界でもまことしやかに言われていた。欧米崇拝の学会で。)が、とりたて詞については日本語の方が文法化、表現の明示が進んでいて、とりたて詞が大きくはモダリティ―(=話者の心的態度)を表すものであることを考えると、モダリティーについては英語より文法化、表現の明示性が進んだ言語であるということができるであろう。英語のモノサシ、枠組みをそのまま日本語に当てはめようしても、真実は見えてこない。漱石はそうした「他人本意」を排して、「自己本位」の見方を中心にしようとした。それは欧米の自己主張の文化、日本の外発的文化をを越えようとする道であった。(とりたて詞と中国語表現については、(2017)『日中対照表現論』朋友書店刊 第4章 とりたて詞と中国語表現 を参照。)

                                 

           2022.3.19  土

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