藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

没理想論争 逍遥と鴎外のバトル



 没理想論争 逍遥と鴎外のバトル
 坪内逍遥と森鴎外の没理想論争(1891年(明治24)-1892年(明治25)。〈没理想〉とは,理想や主観を直接表さず,事象を客観的に描く,あるいはそのような態度で描かれた作品の特質をいう。)は、どういうものであったのだろうか。坪内逍遥は小説を三つに分類し、物語派、人間派、折衷派とした。それぞれ、事柄を主とし、人物の性格が事柄を引き起こし、前二者の中間であるという。それらに価値判断は与えない。鴎外は、この逍遥の「没理想的」形式主義を批判し、小説は歴史的に発展してきており、今や「人間派」が優位にあるという。鴎外は、ロマン主義からリアリズムへという19世紀西洋の小説の変遷を自明の前提にしている。鴎外にとっては、逍遥の言うようなジャンル(種類)はあり得ず、ハルトマンの言う「美の階級」がある。鴎外は、ジャンルの消滅を言い、自然主義派はこの線上に自らの優位を認めた。しかし、漱石はそうした歴史主義的な観点を否定した。ロマン主義と自然主義は、つまり純主観的態度と純客観的態度は「小説」の中で入り乱れている(漱石「創作家の態度」)というのが漱石の考えであった。(柄谷行人(2017)『新版 漱石論集成』岩波現代文庫 pp.182-184。)
 歴史主義というのは、進化主義と親和性が高く、歴史は一定方向に進んでいるという考えで、マルクス主義がまさにそうである。生産諸力の拡大で生産諸関係は、古い衣服を脱いで新しい衣服を身につけるように変わっていくとする。社会主義革命は歴史の必然であると。しかし、現実には、権力の奪取によって強制的に資本主義社会は社会主義社会に代えられ、「共産党」は今や「独裁」で人民を抑圧している、というのが教養のない人々の「常識」である。かつて共産主義がヒューマニズムであった時代もあったし、中国の共産党「独裁」は北宋の「皇帝独裁と平民経済の発展の同時進行」を知ったうえで考えなければならない。
 ロシアのプーチンのウクライナ侵攻は、歴史的な帝政ロシアのツアー=皇帝の絶大な権力とそれとの親和性のあるロシア的大統領制の関係で考えなければならない。もっとも、誰も人民を殺す権利はないのだから、プーチンはツアー=皇帝の亡霊と言われても反駁できず、どう収拾をつけるかしかプーチンの残された道はない。
 資本主義社会の富裕層の特権階級化もひどいものがあるが、自分は屠殺する側の肉屋だと勘違いしている豚が多数、存在している日本社会では、現状そんなに変わっていかないであろう。まずは自分の生活を防衛するしかない。「ひろゆき」はティックトックでそんな意味のことを述べている。おおむね私は賛成である。


                               2022.3.24  木

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