藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

柄谷行人 漱石論「内側から見た生」内容要約とノート

          

柄谷行人 漱石論「内側から見た生」内容要約とノート
 内容要約
 柄谷行人(2017)pp.88-97 。『夢十夜』は漱石の生の暗喩である(p.69)。漱石は生への徹底的な嫌悪を持ち、社会的に存在することは自己の本質を奪っていると考えた(p.73)。
 「第三夜」。自分の背負っている盲目の子供が、100年前に自分に殺されたと言い、それを思い出すと背中の子供が石のように重くなる。「父殺し」を暗示する。この世に放り出されてあることの懲罰的な意味を暗示している(p.77)。エディプスの父親殺しは、意識の偶然性の発生(一定の父親から生まれてきたこと)と同時にその《意識》が不可避的にかかえこむ負荷(もう一つの「父母」から生まれてきたこと)=《社会》との確執を表している(p.79)。
  「第六夜」。運慶の仁王の話。他人は木の中に埋まっている仁王を掘り出すが、自分の明治の木には仁王は埋まっていないので、仁王を掘り出せない。明治の精神の空洞。自己存在の無根拠性を象徴している(p.86)。
 「第七夜」。あてどない営為と徒労感がより明瞭に示されている(p.86)。行き先も帰り先もわからぬ漂流感が漱石の基調にある(p.87)。
 「第九夜」。若い母と三つになる子供が父の帰りを待ちわびて心配していたが、その父は実はとうの昔に殺されていたという話。幼年期における家族解体の経験を象徴している(p.91)。
    ルソーにとって社会は個体の外側にあり、自然に帰れば黄金時代が生ずるが、漱石にとっては、《社会》とは《意識》であり、自分自身に余計な桎梏を課する意識そのものに他ならない。意識が《社会》を作っている以上、「自然」に帰ることはできない(p.96)。
  『夢十夜』全編にみなぎる漱石の「暗さ」は、この世界では個体は本質的な生存を許されないということである(p.97)。


   ノート
 「漱石にとっては、《社会》とは《意識》であり、自分自身に余計な桎梏を課する意識そのものに他ならない。意識が《社会》を作っている以上、「自然」に帰ることはできない(p.96)」。『明暗』の関係を想起させる。他人との関係と自分自身との関係の二つの中で、両者を平等に見ることによって、漱石は活路を見出したが、それは人間社会の明と暗を排斥しあわない形で両存させることであろう。『道草』を経ることで『明暗』を書けたと柄谷氏は他のところで言っている。その根拠は何か。
 現在の研究は実証性が重んじられるので、こうした「評論」はどこまで信憑性があるのか、問われるところであろう。

                                  

           2022.3.28  月

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