藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

柄谷行人 漱石論「文学について」 内容要約+ノート

        


柄谷行人 漱石論「文学について」
 柄谷行人(2017)pp.125-154  漱石論「文学について」。
 内容要約
 漱石が「英文学」に対して「漢文学」と言った時、それは中国文学ではなかった。そして漱石は「英文学」に対して和歌に代表される古典文学を対置しなかった。漱石は「漢文学」に対して、英文学・漢文学・国文学のいずれでもないもの、つまり音声的でないものを求めた(p.134)。
 日本で「風景」が見出されたのは明治20年代で、「風景」は「内部」あるいは「自己」とともに出現するものであり、外界に何らの関心も持たない内的な人間によって見出された(pp.137-138)。明治20年代に明治国家が制度的に確立し、維新以来ありえたかもしれない可能性が閉ざされたから「内面」「自己」とともに「風景」が見出されたのである(p.136)。
  「言文一致」とは「言」=「文」であるようなものの創出で、「言」=個人の内面、「文」=「言」が写し取られたものである。「言」=「文」は近代的制度の確立の上でのみ生じた。「風景」も「内」=「外」的なものとして生じた。芭蕉の風景は「文」で「言」ではなかったが、「言」=「文」というレベルによって国木田独歩の(明治31)「忘れえぬ人々」のような「風景」が出現した。「内部」も制度として生じたのである(pp.137-138)。
    漱石の山水画は漢文学と同じ意味を持っていたが、実際には存在しない、体系以前のたわむれの世界であった(p.139)。
   漱石は(注:一方向の進化しか認めない)歴史主義における西洋中心主義、歴との連続性と必然性に対して根本的な異議を唱えている(p.147)。\ロマン主義と自然主義を歴史の順序の中で見るのではなく、漱石はそれを二つの要素とみて、それは作品内部においても言えることだという(pp.148-149)。
    漱石が「文学」を疑った時、明らかに彼は彼自身の立たされている認識論的な布置を疑ったが、そうできたのは、漱石が「文学」以前の感触をとどめていたからであり、「風景」以前の風景を記憶していたからである(p.154)。


   ノート
 漱石は近代西洋を疑い、江戸文学や「漢文学」を背景とする「自己本位」であろうとした。漱石にとっての「文学」とは、「自我」の顕現だけでもなく、心理描写だけでもない。表層の他者の関係だけでもなく、潜在的な自己内部の関係だけでもない、「明」と「暗」の両方を対等に考察し、描いたものだった。
 「漱石は「漢文学」に対して、英文学・漢文学・国文学のいずれでもないもの、つまり音声的でないものを求めた(p.134)。」というのは、ソシュール流の「言語は音声である」という言辞を踏まえているようだが、「規制の文学概念でないもの、「自己本位」の文学を求めた」と書けば済むことである。評論家は勿体付けた言い方をするから、敬遠される。
 「風景」は、あるべき可能態として、明治国家の制度に疎外された「内部」「自己」とともに「風景」が出現した、ということであろう。
「「言文一致」とは「言」=「文」であるようなものの創出で、「言」=個人の内面、「文」=「言」が写し取られたものである。「言」=「文」は近代的制度の確立の上でのみ生じた。「風景」も「内」=「外」的なものとして生じた。」つまりは「言」=個人の内面が「文」(=「言」が写し取られたもの)として、制度化され、規範化されたということであろう。


                                2022.3.29  火

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