藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

江藤淳「漱石の文学」  内容要約 +  ノート

       

江藤淳「漱石の文学」  内容要約 +  ノート
 江藤淳「漱石の文学」(平成17)『草枕』 
新潮文庫 pp.200-212
  内容要約
   ・漱石文学の核に潜んでいるのは、寄席趣味に象徴される江戸的な感受性である(p.202)。漱石の生家と養家いずれもが名主の家柄だったという事実は重要で、名主は管理することにおいて武家に通じ、消費においては武家の自己抑制に必ずしも制約されない(pp.204-205)。
・漱石以外の近代作家は、その多くが漱石が自らの血肉に継承していた江戸的な感受性と倫理観を否定するところから出発していて、とりわけ坪内逍遥が『小説神髄』で唱導した近代小説の路線がそうである(pp.205-206)。
・逍遥は『小説神髄』で「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と述べ、心理学者のように人の心理や世態風俗を描くのが、リアリスティック・ノベル、小説であると言い、自らを涵養した江戸末期の戯作文学を否定した。新文学は「真」文学で、19世紀のリアリズム文学観を支える「真」の原理によって貫かれた文学であるが、『坊ちゃん』は正宗白鳥が評したように「型の如き人間」ばかりが登場する「通俗小説」で「卑近な正義観」を振り回しているだけだが、逆転させてみれば、「善」と「美」という現実に存在しない原理によって生きているのが「坊ちゃん」であり、漱石の文学が今日まで生き続けているのは、この「善」と「美」の原理が切り捨てられることなく脈々と生きているからにほかならない。読者一般はそうした「善」「美」あるいは「風雅」「諧謔」を求めようとしたのである(pp.206-208)。
・漱石はやがて「諧謔」の作風から「近代」に生存を余儀なくされている人間の孤独な影を描くという作風への転換を示し、『それから』のような画期的な作品を書いた。エゴイズムと不信に悩む孤独な個人。彼はこのような日本人を発見し、その姿を描き続けた(p.211)。
・漱石は「天」より「地」の生命力に孤独とエゴイズムを超える契機を見出しかけていたように思われる。『道草』のお住の出産場面で、健三が「ぷりぷりした寒天のようなもの」に包まれた「強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違いない」ものの上に、脱脂綿をむやみにちぎって置く。人間の原形質であるが故に我執=エゴイズムの原形質であるが、同時に生命そのものでもある。人間がこのような薄気味悪いものの力で生きていることを漱石は畏怖し、それを認識していく(p.212)。  


  ノート
 江藤淳は坪内逍遥の『小説神髄』の小説観に否定的で、読者一般の小説観、「「善」と「美」という現実に存在しない原理によって生きている「坊ちゃん」」、「「善」と「美」の原理が切り捨てられることなく脈々と生きている」小説を支持している。文学史というものは、西洋文学史を基準として書かれることが多いが、そうした西洋基準を疑う精神が江藤淳にはある。これは権威や外来の事物の受け入れの際に問題になることで、古くて新しい問題であるが、現在では理系の学問が容赦なく日常生活を脅かす時代に我々は生きている。拝金主義がそれに輪をかけて、金が神となったような時代に、我々は地球温暖化の元凶である欧米を糾弾することもなく、権威としての欧米の側につき従う日本で右顧左眄しながら生きている。「国際社会」などというものはなく、腕っぷしの強い国と弱い国の二つがあるだけであることを今、思い知らされている。それにそろそろと近づいて金儲けする国を私は信用できない。
                               
            2022.4.1  金

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