藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

柄谷行人 漱石論 『虞美人草』 柄谷(2017)pp.366-372

  

   

柄谷行人 漱石論『虞美人草』柄谷(2017)pp.366-372
 ・『虞美人草』 は1907年、明治40年に朝日新聞に連載された。東京帝大講師をやめて、朝日新聞に入社した漱石の最初の仕事である。この時、漱石は初めて作家としての自覚を持った(pp.366-367)  。
・漱石は社会正義に強い関心を抱いていて、「僕は一面に於いて俳諧的文学に出入すると同時に一面に於いて死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい」(鈴木三重吉宛書簡 明治39年)と述べている(pp.367-368)。
・『虞美人草』はある意味で馬琴に似ている。すなわち坪内逍遥が「近代小説」の確立のために否定した「勧善懲悪」に戻っている。同時代の自然主義作家、正宗白鳥はこの作品では人物が「概念的」に描かれているだけで、人物が変わることのない性格(キャラクター)として描かれているだけだ(つまりは『坊ちゃん』の赤シャツや野だいこと同じだ)と言う(p.369)。
・この時期の漱石にとって大切だったのは、意識(心理)に傾斜し、したがって私小説的に偏狭化していく日本の近代小説の中で、逆に、そのような意識を超えた骨格(性格)を持った世界を構築することであった(p.371)。
・漱石は『虞美人草』のあとで、彼の言う「悲劇」の理論(=「道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足しがたき時、悲劇は突然として起こる。是に於いて万人の眼は悉く自己の出立点に向かう。始めて生の隣に死が住む事を知る。」甲野の口で語られる「悲劇」の理論 p.371)とは違った《悲劇》を書くにいたった。それは、けっして彼の本意ではなかったが、彼は急激な速度でその方向に進んだのである(p.372)。


       ノート
 「悲劇」の理論の説明がわかりにくい。藤尾が自殺したことか。文芸評論家と言うのは、客観的実証性が求められる論文を書くのではないから、実証性のないことを書きがちである。もったい付けた言い方が多い。漱石の言う「始めて生の隣に死が住む事を知る」というのもわかりにくい。村上春樹は『ノルウェイの森』で「生は死の隣りにある」ということを言っているが、思わせぶりである。「死」は必定、「生」はつかの間。『荘子』至楽篇の死の賛美をする骸骨を思い出す。もう一度、生きさせてやろうかと言うと、厭わしいことがないから、死の方が生よりいい、もう一度生きるなんてまっぴらごめんだと骸骨は言う。生きている以上、少しでもいい傾向を作ろう。それが将来にも影響すると思う。黄梁一炊の夢。それでも生きていこう。不動の深く強い自分を作りたい。今日も本を読み、研究する。それが習慣となって、早、33年。寸暇を割いて、本を読んだ日々。今では、その傾向が確立した。死ぬとき、私はどんな報い、果報を得るだろうか。慄然とした思いがする。

                             

          2022.4.13   水

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