藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

明治40年代の漢文の状況

          

   

 高 山 樗 牛 (1897年 (明 治30))「支那文学の価値」
明治40年代の漢文の状況
北川扶喜子(2020)pp.37-58  「ねじふせる」
 要約
 漱石の『虞美人草』が書かれたのは1907年、明治40年のことで、それは「自分で結婚相手を決めようとしたが、死という報いを受ける」物語であった(p.40)。好きな相手と結婚しようとして死の報いを受けた藤尾を死罪にするのは無理があるから、漱石は漢文調の文体で押し切ろうとして、甲野さんの日記でだけ漢文調を用いて、新しい、ある意味、打算的な藤尾をねじ伏せたのである(p.56)。
 科学信奉の時代に自然科学によって発展していく社会に生きる市民がふさわしい文学を発展させないといけないというのが坪内逍遥の考えであった。『小説神髄』はその具体策を述べたものである。
 明治40年代、漱石が小説を書き始めた時代は、すでに漢文は読めても書けない若者が台頭していて、その漢文を書けない人口は漱石が作家として生きた10年の間に増えていく一方であったが、もはや自分では書けない文体であることによって、漢文の「公」感、「非日常」感は増強された。漱石の次の世代にとって、漢文は、「向こう側」の、エライ人の文章なのである(p.57)。
 漱石は英文学より漢文が好きだと様々な場面で繰り返している。西洋近代で生まれた「小説」は、男女が核となる市民社会の日常を描くジャンルだが、漢文は、「士大夫」―社会的地位のある男性知識人―の文学で、好きな漢文を捨てて、小説家になるという選択は、漱石自身すら思いもよらぬ亀裂を、新聞デビュー作『虞美人草』の、ほかならぬ言葉そのもののうちに、(藤田注:漢文による藤尾のねじ伏せという亀裂を)走らせてしまったのである(p.58)。


   ノート
 「明治40年代、漱石が小説を書き始めた時代は、すでに漢文は読めても書けない若者が台頭していて、その漢文を書けない人口は漱石が作家として生きた10年の間に増えていく一方であった」。1907年、明治40年。日清、日露の戦争を経て日本は資本主義発展期。漢文が読めても書けない若者の増大には、1894―1895年の日清戦争での清国の凋落が決定的な影響を与えている。高山樗牛は「支那文学の価値」 (1897年 (明 治30))で  「支那文学」は 「我が国民文学の進歩 にひ益するものに非ず。歴史的意義を離れて其の価値の称すべきもの甚だ少 し。」と述べ、「支那文学」を否定する。日清戦争以前には、「シナ文学の衰退」を嘆いていた樗牛が、日清戦争後、「シナ文学」を完全否定するのである。繰り返すが、この180度 、逆の 「支那文学」観が提示 される間には日清戦争の存在がある。それまでのシナ文学賛美から真逆のシナ文学廃止論に高山樗牛は大きく舵を切った。節操のない男である。日本も大勢はそうであった。シナ文学の衰退によって生まれた間隙にドイツ観念論哲学や欧米文学が入り込んでくる。明治は文化系についても欧米流の一方向の進化発展が正しいとする社会進化論の一世風靡した時代であった。もっとも、漢文の「公」感、「非日常」感は増強され、やがて難しい漢語風表現、例えば「国体」とか「八紘一宇」とか「亜細亜主義」とか「東亜新秩序建設」という内容の不明瞭な表現の権威付けに使われたのであった。現在の小説で言えば、村上春樹あたりから漢語表現は拒否され、やはり意味不明瞭なカタカナ英語が使用されるのであるから、文化的には同じことが行われているのであろう。中国からアメリカへ、漢語からカタカナ英語へ、時代は変われど本質は同じ。
                               
           2022.4.18  月

×

非ログインユーザーとして返信する