漢文学と英文学 漱石の選択
漢文学と英文学 漱石の選択
北川扶生子(2020)「こだわる」 pp.79―91
内容要約
ダーウィンの進化論は生物の進化論であり、理系の世界の話であったが、ハーバード・スペンサーはそれを文科系にも援用して文化の一方向の進化を唱えた。社会進化論である。文学も西洋文学が正しい文学で、それを学びに漱石はロンドンへ赴いた(正確には、文部省から英語教育研究の名目で留学した漱石は文学、文学理論の研究にもっぱら時間を消費した)(pp.84-85)。
漢詩文に深く親しみ、俳人として名を成しつつあった漱石は、「英文学」をそれらに匹敵する魅力を備えたものとして見出すことができなかった(p.87)。
森鴎外も西洋文学の素養を持ったが、晩年には日本歴史小説へと向かった。漱石は『明暗』によって近代的な小説の世界を切り開いた(p.90)。
新聞小説家として生きることで、漱石は近代小説というジャンルを切り開いていった(p.92)。
ノート
漱石は英文学を認めることは「他人本意」と思い、自己に忠実な「自己本位」の生き方を求めることにした。元来、漱石は、へそ曲がりで癇癪持ち、けんかっ早い性格で、そのくせ気の小さいところもあったようである。鏡子夫人の書いたものなどにはそれがよく出ている。「英文学」をありがたい権威として崇めなかったところが明治の人で、前代の江戸時代の気風を持ち続けたところに漱石の偉大さがある。内村鑑三しかり、岡倉天心しかり、単なる欧化主義者ではなかった。
2022.4.19 火