藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』「訳す」:翻訳調 pp.194-205

           

                 

      森 田 思 軒


 北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』「訳す」:翻訳調 pp.194-205
 内容要約
 明治の文学者、斎藤緑雨は江戸文学の素養を武器に、スタートしたばかりの明治文学を痛烈に批判した(p.199)。森田思軒、坪内逍遥、二葉亭四迷、饗庭篁村、山田美妙、尾崎紅葉を痛烈に批判した。樋口一葉の文章は口を極めて褒めちぎった(p.200)。
    リアリズム小説で用いられた言文一致体が登場したころは、江戸っ子の緑雨にとってリアリズムの「描写」はかったるく、漱石も同様に『文学評論』で悪口全開である(p.201-202)。
  明治時代に翻訳王と呼ばれ、人気を博した森田思軒は緑雨に思軒宗とあざ笑われたが(pp.197-198)、思軒風の翻訳調は言文一致が浸透してゆくにつれ、その中に溶け込んでいく。しかし、漱石はあえて自分の作品の中で翻訳調の文体を使う。翻訳文体の不自然さは漱石ももちろんわかっていたが、あえてその不自然さを小説の効果として利用した。漱石はデビュー作の『吾輩は猫である』と同時進行で、短編小説を七つ書いているが、アーサー王伝説を素材とする作品『薤露行』(かいろこう)では、現在形の語尾が多用され、翻訳調の文体で書かれている。遠いところで繰り広げられる美しくも悲しい物語の雰囲気を伝えるため、読者と作品世界の間にへだたりを設けるために翻訳調を使用した(pp.203-205)。


     ノート
 漱石は、工夫の人であった。『猫』で漢文調で「公」をあざ笑い、『薤露行』で読者と作品世界の間にへだたりを設けるために翻訳調を使用した。多様な文体は、表現する内容の違いに応じて生まれたものであった。文体についての研究は、中村明氏によるものがあるが、私は面白いと思わない。文体の違いが明晰に述べられていないのである。内容と形式の一致、不一致ということはヘーゲルも言っていて、ヘーゲルはギリシヤ時代の芸術に内容と形式の一致を見出した。フェノロサからヘーゲル哲学を学んだ岡倉天心は、天平時代に日本美術の内容と形式の一致を見出し、高く評価した。天心は東京美術学校の制服を天平時代の礼服を模したものにした。着にくく、不評であったという。

                              

         2022.4.23    土

×

非ログインユーザーとして返信する