藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』「さらす」: 視点 pp.209-233

   

     恥 を  さ ら す


北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』「さらす」: 視点 pp.209-233
 内容要約
 『門』という小説は、お米の苦悶する姿をくり返し描き出し、正確に言えば、物語の彼女の苦悶する身体を描き、内面を描かない(p.212)。病床で我を忘れる身体が描かれるのは、漱石の作品では女性の場合が多い(pp.216-217)。プライベートな空間でのみ眼にするような女の身体を公共的な空間で集団で見るのは、私たちの文化全体の大きな傾向としてある(p.217)が、漱石の場合は、さらされる女の心身がほとんど病んでいて、見る男の恐怖が潜在している(pp.218-219)。
    漱石の小説では、身体がクローズアップされるとき、女の身体がさらされ、男がそれを見つめる場合や男の身体がさらされ、男がそれを見つめる場合がある(p.228)。前者では男の恐怖が鎮められ、後者では嫉妬と死の意味があり、両立は不可能である(p.228)。
   『明暗』ではじめて女が男の身体を見るというパターンが登場する。この小説の中心には、病んだ男の身体がある(p.229)。男の身体、つまり津田の病む身体は、日常の生活に据えられた爆弾のようなもののメタファーになっていて、私たちが営む日常生活や人間関係の意味をあぶりだす装置として、男の病む身体が用いられており、更に津田の身体は、それを凝視するお延のまなざしによってその空虚が暴かれていく(p.233)。


          ノート
 この章では、男女=ジェンダーの視点が強く出され、男と女が対立的な二項として前提され、感心しない。 『明暗』で女が男を見る視点が強く印象に残るのは事実であるが、それはそれまでの小説ではあまりに男が女を見る視点が強かったから際立つように見えるだけであり、男と女が対立しているだけではない。日本のジェンダー論には西洋のものを安易に日本に当てはめる嫌いのものが多々見られ、かつてフロイト流の精神分析を安易に小説分析に当てはめるのが流行ったが思い出される。西洋の二項対立の思想以外に、東洋には共同体志向の「麗しい」ものを求める思想、志向がある。
 漱石の『明暗』も、その視点から考えれば、互いに批判し合うのではなく、互いの会話の中から本人も思いもよらなかった本人の本質が表れてくるという側面があり、本人と他者との関係は対立的なものだけではなく、共同体的、不可欠的な関係である。漱石の到達した「則天去私」とはそうした他者との関係志向のことであると思う。

                                  

            2022.4.24 

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