藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』迂言法: pp.238-253

    

 

北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』迂言法: pp.238-253
  内容要約
 迂言法とは短い語句で言えることを、わざと複数の言葉を使い、いいかえる修辞法のことで、たとえば「トイレに行く」ことを「小用を足す」とか「お通じがある」などと表現するものである(p.240)。婉曲に述べて、上品さを示したり、皮肉な響きを込めたり、さまざまな効果を出すことができる(同)。『夢十夜』で「性格」に「纏まらない」人間の姿を描いたが、迂言法が使われている。床屋の主人を「白い着物を着た大きな男」と表現し、髪の毛を刈ることを「物になるだろうか」と表現している(pp.251-252)。
     『明暗』では、夫の津田と妻のお延の心が通じ合った際の互いの微笑みを次のように迂言法で表現している。「彼女は肉の上に浮び上った其微笑みが何の象徴であるかを殆ど知らなかった。たゝ゛一種の格好を取って動いた肉其物の形が彼女には嬉しい記念であった。」人の顔が「肉其物」でしかないようなグロテスクな世界がここにはぽっかりと口を開けている。世界の無意味さと正面から向かい合う点で、20世紀文学の古典にふさわしいものになったのではと感じる(p.255)。


     ノート
 『明暗』で漱石は大きく飛躍し、嫌っていたと思われる近代小説の、人々の個人の心理描写を会話の中でリアルに示す方法を呈示したようである。
  日本人は迂言法も含んだ意味で、婉曲表現を好むが、そのことは日本語表現にも表れていて、「コーヒーを飲みませんか」とは言わないで、「コーヒーでも飲みませんか」というのが普通の言い方である。テレビでもキャスターは「~と思います」と言えばいいのに「~かもしれません」を多用し、気象予報士は「これからの天気を見てみます」とは言わずに「これからの天気を見てみましょう」と言う。どうしてこうした婉曲表現を多用するかについては、人との争いを避ける農耕民族の社会の在り方に由来するという説がある。農業では、水の管理を共同にして、人と争わないで、協調しないといけないから、当たり障りのない言い方を人々は好むと言う。本当かどうか知らないが、そういうことを言う人がいる。本当かどうか検証が難しいから、こうしたことは学問では扱わない。少なくとも今まで学問では扱われてこなかった。しかし、どこかで扱わないといけない。私の比較文化学はそうした事柄をできるだけ客観的に明らかにしようとするものです。
                            2022.4.25    月

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