藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』終章 pp.258-266

   

                 近代化によって失われたものは何か?


北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』終章 pp.258-266
 内容要約
 漱石は漢文調の表現が使えなくなり、言文一致体を採用することと並行して「人間が収まるべきところに収まる」という漢文が伝統的に持っている世界観も作品世界の中で影を潜め、「塵労」(『行人』の言葉)が果てしなく広がるこの世界という苦しい認識が浸透していく(p.259)。
   言文一致体による「描写」は、言葉が指し示す意味内容に我々の意識を集中させ、その文体によってリアリズム文学が生まれ、「内面」の描写が可能になる。この流れの上に漱石の長編小説が生み出された(pp.259-260)。
 「近代化」とは「均質化」でもあり、前近代の日本語が持っていたTPOの使い分けは、言文一致体という誰でもどんな場面でも使える文体へと統一されていった(p.263)。これは近代が「万民が平等な社会である」という通念と対応している。言葉の変化は認識の変化であり、漢文調の「公」的な、「崇高」なものを表す方法とその「崇高さ」を茶化す方法の両方をすでに我々は持っていない(p.264)。漱石は「自己本位」で「力に抗って自分の言葉をつかむ」ことによって自分を支えることを教えてくれる(p.266)。


     ノート
 近代によって我々が失ったものの再認識が必要である。地球温暖化も産業革命以来の自然の破壊と略奪によって生まれたものである。元凶は、「神の死」による、人間の飽くなき欲望の充足である。それも今や少数の3パーセントぐらいの富裕層がその富を享受している。資本主義社会はすでに金融社会になっている。日本人には、株によって儲けることに対する罪悪感があるので、投資よりも貯蓄が多く、全体資産の半分以上が貯蓄である。だから、投資の促進を図らなければいけない、投資に法的優遇をしなければならないというのが橋下氏の考えだが、「富は徳の結果」という本来の儒教的倫理感が根底にある日本社会で、果たしてそれが可能であろうか。日本人の元来、持っていた良い価値観をリメイクして再評価すべきである。過去のことと言うと、戦前はすべてよかったと言う馬鹿がいるが、教養がなさすぎる。若者にそれが多いのは、学校で日本はだめだと言われ続けたことに対する反感があるのだろう。北朝鮮を「地上の楽園」と言っていた筑紫哲也などは故人となったが、日本批判と外国賛美は一体で、今、アメリカのことを悪く言う者はいない。出世頭はアメリカに行くからだ。テレビの元ワシントン支局長の「なるほど、なるほど」の反町もそうだ。
 どうして、日本人はオール・オア・ナッシングでしか考えられないのであろうか。テレビ報道、大手マスコミ報道自体、犯人捜しを標榜している。もうテレビの時代は終わっている。
                             
            2022.4.26 

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