藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

山縣有朋 (1878-1922)


                     

                                              山 縣 有 朋


 今回から、人物評伝など、特にトピックを決めず、心に響いた本の内容要約とノートとなります。乞うご期待! 知らないことがたくさんあります。大切な知識を共有しましょう!


山縣有朋 (1878-1922)         阿部眞之助(2015)『近代政治家評伝』文春学藝ライブラリー pp.11-38
  内容要約
 天皇を神格化し絶対化すると共に、天皇をデクノ坊化し、その権益を軍閥の手に収めようとした。これが寝ても覚めても山縣の忘れない願望だった(p.17)。山縣有朋。明治陸軍の基礎を作った元老。長州閥。安倍さんのグループ。
 私たちを慄え上がらせた暴圧が三つある。その一は1887年、明治20年の保安条例、その二は1892年、明治25年の総選挙大干渉、その三は昭和のシナ事変中、発布された1925年の治安維持法である(p.31)。
    山縣が卒去する1年前の1921年、大正10年、3月11日、一切の公職、栄爵を拝辞せんことを願い出て、時の新聞はその理由を宮中某重大事件と報じた(p.36)。
  事件は、皇太子妃冊立に関して、久邇宮第一娘良子が皇太子裕仁妃に内定すると、山縣から異議が出たことに端を発する。久邇宮家には色盲の遺伝がある。これを神聖なる皇室に導入するのは、国家の不祥であるというのである。久邇宮家は島津家の出で、色盲は島津家に伝わるものであった。良子の入内は色盲を皇室に持ち込むのみならず、薩摩の勢力を宮中に持ち込むものと理解された。世間は山縣の異議申し立てをそのようにとった。山縣は長州の権勢を維持しようとして、宮中の婚儀にいわれのないケチをつけ、薩摩勢力を阻止しようとしたものだと世間は解した(p.36)。
    山縣は医者の勧めで、晩酌はワインコップ二杯と決めると、コップに指で印をつけ、それ以上注がせなかった。山縣はこういう用心深い人間だった(p.38)。
 
     ノート
 1887年、明治20年の保安条例は、自由民権運動を弾圧するための法律で、治安警察法や治安維持法と列んで戦前日本における弾圧法の一つ。集会条例同様、秘密の集会・結社を禁じた。また、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。これにより退去を命じられた者は、12月26日夜から28日までに総計570人と称されている。この条例により東京を退去させられた主な人物には、尾崎行雄、星亨、中江兆民らがいる(ウィキペディア閲覧)。中江兆民はその後、大阪へ向かう。
 この宮中某重大事件では、北一輝ら右翼が猛反対したが、原首相は事態収拾に向け行動し出す。原は情報係を務めていた松本剛吉に山縣らにはっきり態度を決めるよう伝言を依頼し、松本は2月5日に山縣を訪問。山縣は「原の言う通りだ」と、血統論は放棄しないが事態を鑑みれば已む無しという姿勢をみせた。2月8日の閣議で原首相は閣僚に宮中某重大事件の顛末について話し、事件が公のものとなる。2月9日、中村宮内大臣は山縣を訪問し、このまま婚約問題が紛糾するのは皇室のためにならないため色覚異常を不問にすることを進言、これに対し山縣は反論しなかった。翌2月10日、中村は東京に戻り、原首相に対し、右翼・国粋主義者の騒動を鎮圧するために成婚を遂行し、自らは辞任することにしたと報告。同日午後6時、内務省警保局長川村竹治から東宮妃内定の件は変更ないと聞いていること、中村宮内大臣が辞表提出の決意をしたことが発表され、続いて午後8時に宮内省から発表された(ウィキペディア閲覧)。かくして、一件落着した。
 現在では考えられないような異様な事件であるが、現在なら、皇太子妃候補選定の過程で、候補から脱落するであろう。それとも、「愛」を貫くなら、容認しようということになるかもしれない。皇室、国家の威信とは何かを考えさせる事件である。
                               
          2022.4.27   水

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