藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

大久保利通 (1830年9月26日(文政13年8月10日)- 1878年(明治11年)5月14日)

           

   

大久保利通 (1830年9月26日(文政13年8月10日)- 1878年(明治11年)5月14日)
阿部眞之助(2015)pp.257-283
     内容要約
 鹿児島城下甲究川の河畔、加治屋町に西郷と大久保は生を受け、西郷は大久保より長ずること三歳、両者は相許し、兄弟の交わりがあった。鹿児島で言うところの兄弟とは男色の関係で、大久保は眉目秀麗のヨカ稚児だったようである(pp.259-261)。
    西郷との関係で、大久保は女性の立場にあった。これは大久保という人間を知るうえで、重大なポイントのようである(p.261)。従来の大久保観には、この重大なポイントが見逃されてきた。大久保の思考が消極的で、陰気臭く、陰険らしかったことは、少年時の性遊戯による女性化が与っていたことは疑いがないようだ。大久保が西郷の征韓論に対して、断固内治を主張したのは、賢妻の論に比較することができる。危険を冒して山を張るより、つましく暮らして、少しずつ貯金をしましょうと言うのである(pp.361-362)。
    征韓論で大久保と西郷がたもとを分かつに及び、薩摩の勢力は二分し、長州と大久保が提携することになった(pp.266-267)。
    大久保暗殺は、仏者の言葉を借りれば、因果応報と言えないことでもなかった(p.282)。


        ノート
 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の明治日本政府(太政官)の実質的・事実上の首相(ウィキペディア閲覧。)
 西郷と僧月照との関係については林真理子が『西郷どん』放送の関係でNHKに出た時、「ボーイズラブ」と英語で言っていたが、西郷はそういう関係を持っていたようである。ウィキペディアには、大久保との関係は書いていないが、阿部眞之助氏の征韓論についての西郷の男性的と大久保の女性的からの解釈は、常軌を逸している。また、単純に過ぎる。ただ、こういう考え、憶測(客観的根拠のない)もあるということは知っておいてよい。それが客観的な態度であろう。大体、歴史小説というのは、面白おかしく、史実でないことを膨らませて書くものである。司馬遼太郎『竜馬がゆく』など、その典型で、今や、竜馬が武器商人であったことは明らかになっている。


  今日は京都古本まつり初日。雨なので行かないつもり。この30年来、5月1日が雨のことはなかったと記憶する。明日からは晴天なので、行くつもり。漱石の「それから」や「門」など新潮文庫版を買い、研究書がいいのがあれば、買おうと思う。今年になってから漱石の小説、研究書など、60冊ほど読んで、『吾輩は猫である』の中国語訳など調べているが、研究に際限はない。それにしても「それから」を読んでいると、働こうとしない高等遊民というのが100年前からあるのだから、それを取り上げて小説にする漱石という人も大した人で、今、読んでも古さを感じないのがすごいと思う。
                                  

             2022.5.1 

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