藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

板垣退助 (天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)

        

   

板垣退助  (天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)
 阿部眞之(2015)pp.287-315
  内容要約
 思うに板垣は、無駄な長生きをしすぎたもののようだ。華々しい前半生の活動を、意味のない後半生の生存により、塗り消してしまった形がある(p.287)。
   板垣と後藤象二郎は竹馬の友で、板垣は後藤をヤス、後藤は板垣をイノマと呼び合って育った。互いの幼名、保彌太、猪之助の略である(p.289)。
   由来、土佐の政治家は愚直型と才子型の二通りあった。板垣は愚直型だったが、後年の洋行事件は、洋行費の出所が伊藤博文であったところから自由党の問題となった(p.289,p.300)。
  国会が開設され、政党時代に入るとともに、板垣の政治活動はにわかに光彩を失った。何の故たるを知らない。明治33年、全半生(ママ)を敵として戦ってきた伊藤博文に自由党を譲り渡し、政友会を創立せしむるとともに、政界を引退し、大正7年7月16日、83歳の高齢を以て、その生涯を閉じた。幽霊の足のように寂しい幕切れだった(p.314)。


     ノート
 板垣退助 (天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、軍人、政治家。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「憲政の父・国会を創った男」として知られる[1]。
  明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注釈 35]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[86]。
    政界引退後は、明治37年(1904年)に機関誌『友愛』を創刊。同40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行った。大正2年(1913年)2月、肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就く。大正3年(1914年)には林献堂の求めに応じて二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わり、これが後の台湾議会(現・台湾の国会)の起源となる[110]。晩年の著作には『日本は侵略國家にあらず』、『社会主義の脅威』などが知られる[6]。
 大正8年(1919年)7月16日、肺炎のため薨去。享年83(満82歳)。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は自ら廃嫡し家督相続を遅らせて華族の栄典を返上した[111][注釈 45]。   (ウイキペディア閲覧)


 洋行した時、ビクトル・ユゴーから文学の政治宣伝力について教えられた。日本では政治と文学は水と油で文学が政治を語るのは野暮とされるが、文学が政治の宣伝に使われる場合も例外ではあるが、存在する。政治小説や左翼文学はそうであろう。天皇が恋の歌を歌うのも、政治的効果(威厳、権威の表象化)と考えられないこともない。比較文化学的見解。
                                
                                                                                          2022.5.2    月

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