藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

桂太郎 (1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)

          

   

  桂太郎  (1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)
  阿部眞之助(2015)pp.319-348
    内容要約
 桂は少年時より長州藩世子のお小姓を勤め、貴人に対する作法を心得ていた(p.321)。学問は彼の柄ではなく、好むところではなかった(p.322)。
   彼は正義感とか芸術観とかいうようなものに魂を燃焼させるにはあまりに俗物的だった。藩主父子に重宝がられたのも、そこにあったものらしい。床の間の飾り物にはならない。台所用具として実用的な役に立った。それだけのことである(p.312)。
    ドイツに留学すること4年、帰朝すると直ちに軍に入り、大尉に任官した。辞令を受けてあいさつに山縣有朋陸相の官邸を訪問した。両者は同郷人で、初対面だったが、会見はうまく運んで、これより山縣は、終始変わらず、桂の後ろ盾となり、後には桂を後継者と思い決めるまでになった(p.336)。
   彼には4人の妻があり、これに四男五女、併せて9人の子供を産ませた。実用的の良きパパで、家庭は比較的円満だったようである(p.348)。


     ノート
 桂太郎(1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある[注釈 1]。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された[要出典]。
「ニコポン宰相」[4][注釈 2]の異名を持つ。通算在職日数は2,886日(2019年12月現在歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した[6][7][8]。背が低い(低身長な)わりに頭が大きく、腹がふくれた姿が七福神の大黒天に似ていたので、「大黒様」「巨頭公」とも呼ばれたとされる。(ウィキペディア閲覧。)
 「ニコポン宰相」というあだ名は、ニコッとして、ポンと肩を叩くと、誰でもメロメロになり言うことを聞いたといううわさに由来する。国民新聞の徳富蘇峰と大の親友で、阿部眞之助氏は「藩主父子に重宝がられたのも、そこにあったものらしい。床の間の飾り物にはならない。台所用具として実用的な役に立った。それだけのことである(p.312)。」と侮蔑的な人物描写をしている。山縣有朋に気に入られたのも、上司にはそつなく、従順に仕えるタイプだったのではないだろうか。
 第一次護憲運動で退陣ののち、失意のうちに病没したようだが、「葬儀は10月19日に増上寺で行われ、葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂政権を打倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。」(ウィキペディア閲覧。)というから、人望はあったのだろう。桂の親分の山縣有朋の葬儀は、閑散としていたという。


  今日は憲法記念日。1912―1913年の第一次護憲運動のスローガンは「閥族打破・憲政擁護」だった。
                             

           2022.5.3   

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