藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

西園寺公望 (1849年12月7日(嘉永2年10月23日) - 1940年(昭和15年)11月24日)

            

西園寺公望      (1849年12月7日(嘉永2年10月23日) - 1940年(昭和15年)11月24日)                                                                     阿部眞之助(2015)pp.165-192
    内容要約
 彼が偉大だったとすれば、その八、九割までは血統にかかっていた。19の年に、維新三傑と称せられる木戸、西郷、大久保等と肩を並べて、明治維新政府の参与となっている。多くの西園寺を伝するものは、彼の家柄の尊さを差し引くことを忘れ、これを彼の人間の正味としているようである(p.165)。
    会津が落城後、西園寺は新潟府知事になったが、辞表を出し、東京へ出て、酒と色で渡り歩いた(p.175)。西園寺は生涯、独身であったが、邸内には若い女性が奉仕していて、それがしばしば新聞沙汰になったのは有名な話だった(p.177)。
    パリ滞在の明治3年から明治13年は日本が大変な時代だったが、彼はパリを去ろうとはしなかった(p.180)。
     帰国後、明治法律学校に参加して、東洋自由新聞を発行した。自由民権を説くこの新聞の社長を政府の圧力で辞めて、参事院官補となる。すると、女道楽をまた始める(pp.183-185)。
  彼は政友会総裁として、二度、首相の印綬を帯びて、明治の創作家を首相官邸に招待して、雅宴を催した(pp.182-187)。西園寺は増師問題にからみ、違勅によって政友会総裁を辞した(p.189)。
    西園寺一人が国を滅ぼしたのではないが、彼のような意志薄弱なお公卿政治家がたった一人の生き残り元老となったのは、国の滅びる運命だったのだろう(p.192)。


      ノート
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、1849年12月7日(嘉永2年10月23日)[注釈 1] - 1940年(昭和15年)11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。戊辰戦争において官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。
     明治36年(1903年)には伊藤の後を継いで立憲政友会総裁に就任し、明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が3度にわたって交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。
その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった[1]。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。
  また、教育にも尽力し、自らが創設した私塾立命館は現在の立命館大学の礎となった。(ウィキペディア閲覧)
  西園寺が政治に左右されない学問の府を作ることを提唱し、京都帝大ができた。
 漱石と西園寺には面白い関係がある。以下の句が漱石にはある。


 1907年   時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり


 「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり」。時鳥が鳴いている、外へ出てもっと声をよく聞きたいが、厠の中で用足しをしているので、外へ出られない、という句。漱石は、西園寺公望首相(当時)の主催した文士の会への欠席をこの句を添えて断りを西園寺に伝えた。当時、漱石は『虞美人草』を執筆中で忙しかったという理由もあろうが、元来、そうした政治的なにおいのする会は好まなかったのであろう。文部省が博士号を送りつけて来た時の、「学者貴族」の増えるのに疑問を呈し、博士号を拒否したのと同じ考えであろう。臭い招待には臭い厠の俳句で応答したと言えば、言い過ぎか。


                               2022.5.4   水

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