藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

東條英機  (1884年(明治17年)12月30日- 1948年(昭和23年)12月23日)

          

   

 東條英機       (1884年(明治17年)12月30日- 1948年(昭和23年)12月23日)
                         阿部眞之助(2015)pp.351-386
    内容要約
 日露戦争の勝利で軍人がもてた時代がある。それをいいことにして軍人どもが空威張りに威張り出して民衆の反感を買い、軍人が私用で外出するには、わざわざ軍服を脱いで背広に着替える将校もあった。中学の卒業生で、できのいいのは士官学校を志望しないようになった。軍人が一般人に見下げられ、そうした私憤と社会悪に対する公憤がゴッチャになって、彼らの蹶起を促したものとみるべきだろう(pp.353-354)。
    東條は中将英教第三子として東京に生まれた。父子二代にわたる軍人である(p.359)。軍人は良き親分を持ち良き子分を持つことが出世の条件だった。東條の江戸っ子気質がよい親分となる助けとなったようである(p.374)。
   東條によると、アメリカ側が先に戦争を決意した。日本はその先手を打ったまでだ。まさかアメリカが日本に攻撃させようとしていたとは思わなかったというのである(p.379)。
 須磨彌吉郎スペイン駐在大使の語るところによると、米英の電報を傍受して本国に報告したが、チャーチルがルーズヴェルトに対して対独戦参加を懇請したところ、アメリカは直接他国から攻撃を受けることなく、積極的に戦争に参加できない、例えば、日本が真珠湾攻撃するような事態が起これば、アメリカは躊躇なく戦争に加わると答えている一節もあった(pp.379-380)。


  ノート 
 東条 英機(とうじょう ひでき、旧字体:東條 英機、1884年(明治17年)12月30日[注釈 1] - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士17期・陸大27期。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。
    永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(東条内閣、在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。在任中に太平洋戦争(昭和16年12月 - )が開戦した。権力強化を志向し複数の大臣を兼任、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任した。
    日本降伏後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。
 その後、連合国によって行われた東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴された。1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。(ウィキペディア閲覧。)


 日本がアメリカにはめられて、真珠湾攻撃したのは通説になってきている。アメリカというのは、正当防衛を重んじる文化の国である西部劇でも、相手に「抜けよ」と言って、挑発して相手がピストルを抜くと、それより早くピストルを撃って、相手を倒すというのが正当防衛で、相手を殺す常套手段だった。それがなければ、ただの人殺しになってしまうからだろう。自分の敷地内に入った人間は誰であれ、射殺してもいいという合意もあるから、悲惨な日本人留学生ハロウィン射殺事件もかつて起こった。日本人は、アメリカの明るい面しかみようとしない。アメリカの大学生の間では麻薬が通過儀礼のようになっていることを知っている日本人はほとんどいない。そんなだから、マクドナルドやKFC、スタバにいいようにだまされまくっているのだ。そのことを「自覚」することから始めないと、この国は変わらない。ハッピースレイブのままでいたほうが気楽でいいという人間が多い限り、今のままだろう。いや、今より悪くなっていく。人を育てるのでなく、よく育った人に金を出す社会なのだ。大谷君に一票、金のなる木だから。しかし、金にならない人の方が多いのが現実。金にならなくても、まじめに働いていれば、人並みの生活ができた時代は終焉し、アメリカ型の金もうけできない人間のことは知らん、自分で考えろと言う社会になってきている。殺伐としてきているのです。この50年、ずっとそうです。
                                
                               2022.5.5     

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