藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

明治大帝―日本型立憲主義の造形

          

   

  明治大帝―日本型立憲主義の造形   
 瀧井一博(2013)『明治国家をつくった人々』講談社現代新書 pp.291-315
    穂積八束が4年余りの欧州留学から帰朝し、明治22年、「帝国憲法ノ法理」と題する講演を行い、憲法の更に上にある天皇の意思を強調すると、国家学会に集う官学アカデミズムから集中砲火を浴びることになった。官学アカデミズムでは、強大な君主権力を正当化するような天皇主権説は、むしろ劣勢に立たされていたのである。君主の権力は制約されるという天皇機関説が圧倒的に支持されていた(pp.291-295)。
   伊藤博文は、明治22年2月11日の憲法発布式の4日後の2月15日、府県会議長に主権が君主の一身に存することを強調するとともに、2月17日には皇族華族を集めて、国民主体の民主政治を主張した(p.296)。人民を礎とする政治とともに主権を天皇に置くこと、両方を伊藤は見据えていた。
 伊藤は天皇を日本国の「表彰」representation とすることによって、①天皇の対外的表象性と②国民統合の象徴の両方を意味させようとしていた(pp.303-304)。
  日清戦争の際、明治天皇は内心では非戦論者であったが、戦争を求める世論や陸奥宗光の開戦外交によって日清は戦闘状態に入り、1894年8月1日、日本は清国に宣戦布告する(p.310)。
    いったん開始となると、天皇は日本軍を率いる大元帥としての役割を見事に演じ、9月8日、大本営を移動した広島へ向かい、翌年5月30日、東京に還幸した天皇の“凱旋”を国民は歓喜して迎えた(p.313)。
  明治天皇は立憲君主としての役割を弁えて、人民の意向に配慮することを忘れなかった


   ノート
 元老の死去、第一次世界大戦での火事場泥棒的経済発展、それをもととした大正デモクラシーもやがて経済恐慌、政党政治の腐敗と農村の疲弊によって軍部が台頭、逆らう奴は「問答無用」の「非国民」という時代がやってくる。二・二六事件の際、反乱青年将校は「君側の奸」を除くと言って決起したが、昭和天皇は自分の「股肱の臣」をなぜ殺すのかと怒りをあらわにしている。天皇を理想の人格を持つ「現人神」とみる軍人と立憲君主としての務めを果たそうとする「天皇」の間には精神的乖離があった。
  今もウクライナすべて善論が日本を覆い、マスコミがその温床となっているが、マスコミが欧米のマスコミ情報を垂れ流しているだけで、両論併記が基本なのに、ゲスマスコミは厚顔無恥にウクライナ善論をまき散らしている。戦争をして誰がもうかるのか、拝金主義がアメリカグローバリズムによって流布した世界を見るには、それを第一に考えて報道すべきなのに、テレビゲスマスコミはそのことを一言も報道しない。
 天皇についても両論併記すべきである。
                                 

            2022.5.6  金

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