藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

柳田国男 「日本人とは」

          

   

柳田国男 「日本人とは」 柳田国男編(昭和53)『日本人 新装版』毎日新聞社 pp.1-13
    東洋には古くから大勢という言葉が流行していて、一つの新しい傾向が芽ばえてくると、その価値を確かめもしないうちから遅れずについていこうとしてあせる気持ちがあった(p.1)。
    大勢論者は目前のこと以外考えようとしなくなった(p.5)。人口の増加というものは国内の闘争を激しくするのみならず、ことによっては昔から持っていた愛他心、すなわち見ず知らずの人間でも心を動かせば助け導いてやりたいという心持をそぐことになりはしないか、これは大切な目前の問題である(p.7)。
 日本人は非常に漠然とした概念をそのままうのみにして、早合点する傾向があることを我々は経験している。手近い話では義理ということばがそうである。今ではもう、いやだけれども仕方がないからやるんだということが当世の人の考えている概念なのだが、本来は義理というのは人間としてかくあらねばならぬという意味で、その二つの間には非常なへだたりがあるにもかかわらず、その差を飛び越えて早合点してしまう弊害は義理に限らず、今我々が明けても暮れても使っている文化とか社会とかいうことばがみなその類に属するのである。このような抽象的なことばはことに新聞がまずその傾向を助長した(p.11)。
 日本は皆が進んだ方向についていきさえすれば安全だという考えが非常に強かった(p.12)。マスコミというものの長所と弱点を真剣に考えて見なければならない(p.13)。


    ノート
   1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた[1]。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章(没時陞叙)。
 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。(ウィキペディア閲覧)


 民俗学は柳田国男学と揶揄されることがあるが、それほど柳田国男の民俗学への影響は大きい。農務官僚から民俗学者まで幅広い人である。普通の人の思っていたことを発掘しようとした功績は大きい。上記「日本人とは」では、戦後日本人の変化への危惧というようなことを書いている。「義理」やマスコミへの考えにそれが表れている。

                                  

            2022.5.7 土   

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