藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

  柳田国男  「家の概念」

        

  

 柳田国男 「家の概念」  柳田国男編(昭和53)pp.33-57
     元来家というものの意義は、単に集まっているという以上に、日本ではもう一つの任務があった。それを百年ごろ前から、世の変遷とともに意識は薄れつつあるが、つまり善悪の基準となるべき古くからの慣行で、これがかなり強く家に要求されておったのが、近年になって著しく衰えてしまった(p.36)。
   日本の学者の心構えというものが今は少し変わってきて、学者の方がむしろ地位を守ろう、名を挙げようとする、利己的だと思われてもあやしまないほど変化してしまった(p.38)。
  ということばの意味の持つ一種のあいまいさは、国家に対する家という概念と、一方では建築物という物質的な意味での家の考え方で、この二つの点がいつでも誤解のもとになっているようである(p.48)。
    ここで筆者が説きたかったのは、要するに少数のもっともすぐれた人とか、あるいはもっとも尊いといわれる方とかではなく、日本人というのは、それは一つのかたまりであり、そしてそのかたまりの中には幸福の差異や階級の序列は若干あったろうけれども、そういうものを超越した一国の日本人というもののの歴史を特に筆者は考えてみたかったのである(p.57)。


        ノート
 日本人というは、江戸時代、お伊勢さんに一生に一度、行くかどうかで、一般庶民は、住居移転の自由もなく、関所では「入りでっぽうに出女」と言われて、厳しく住居移動を制限されていた。幕藩体制は、江戸幕府と藩の二元的支配で、藩主への忠誠心が、明治新政府になると、天皇への忠誠心へと昇華され、大日本帝国憲法は主権は天皇に、されど人民にも権力は文明社会にふさわしい程度には与えるように、という立憲君主体制を標榜した、折衷的憲法、プロシア型の憲法であった。
 柳田の言う日本人は、「日本人というのは、それは一つのかたまりであり、そしてそのかたまりの中には幸福の差異や階級の序列は若干あったろうけれども、そういうものを超越した一国の日本人というもののの歴史を特に筆者は考えてみたかった」と言うようにきわめて理念型としての「日本人」であり、網野善彦氏の遊行民や山の住人もいたことを考えれば、果たして存在したのか、疑問を呈さざるを得ない。もっとも、明治維新以降の天皇を頂点とする「天皇制」下の「日本人」に限るなら、一定の同一性のある日本人像が得られるかもしれない。それは、作られた、リメイクされた「日本人」で、江戸時代に、過去の歴史の研究は自由であったことを考えれば、柳田の「日本人」は、国家、政治が天皇中心史観、たとえば頼山陽の『日本外史』のようなものに一方で収れんする中で、他方に、より自由で豊かな庶民としての「日本人」像を想定しようとした、天皇の赤子=日本人史観への反発としての「日本人」像の探究ではなかったのではないかと考えられる。
                             
                                 2022.5.8   

×

非ログインユーザーとして返信する