藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

日本人の権威感

 

 日本人の権威感  和歌森太郎 柳田国男(昭和53)pp.172-198
  普通の日本人にとっては、具体的な人間の存在や活動の仕方について、権威を覚えたり、反対にそうでもないという心の持ち方をする。まず「エライ人」があって、その「エライ人」にまつわる一切のものが、権威をもってながめられる関係なのである(p.173)。
   江戸幕府の中頃以来、都市の大商人は身分的には権威者になりえなかったから、貴種権門の名家に伝来した骨董的な品物を高金であがない、自らに権威付けを試みようとした(p.173)。
   皇室に対する尊崇、中世以来将軍に対する態度、近代の官僚、政治家の血筋や閨閥関係は、古い時代に支配的であった権威感の基準の踏襲である(p.176)。
    明治以来の立身出世主義も限界があった(注:立身出世できたのは一握りだった)ので、その抵抗の一つとして感じられた一つは、既成秩序の中の権威者と血族のつながりを求めることであった(p.177)。
 信仰が村人の間に希薄になるにつれ、高い異質の世界からの来訪を伝えることによって、自らの社会が決して封建的な平凡なところでないことを説明する手段としてきた。雪国に顕著な日本武尊(ヤマトタケル)伝説、坂上田村麻呂伝説、北条時頼の回国伝説などそうしたモチーフによって成立した話である(pp.181-182)。
   日本人の権威に対する抵抗には、中世の落書、落首、近世の狂歌、川柳など一口に言って落首文芸と言われるものが、それをよく示している(p.197)。 


    ノート
 皇室の存続は、日本の伝統的な権威感がリメイクされて踏襲されるかどうかにかかっている。しかし、明治以来、皇室はイギリスやヨーロッパを範とする「開かれた皇室」をも標榜してきたのであり、欧米を範とすることは、時代の推移に沿った「新たな権威」の付加であった。欧米基準の「自由」を中心にすると、皇室は存亡の危機を迎えることになる。上の写真がそのことを証明している。皇室が自ら積極的に「新たな権威」を創出するとは慣習上、思えないので、国民が皇室に権威を認めなくなった時、天皇制自体が瓦解していく時を迎えることになる。皇室の前途は多難である。国民の「新たな権威」の創出を皇室は忍耐強く待つしかないのであろうか。それとも? 愛子内親王の今後が一つのカギとなるであろう。


                               2022.5.11  水

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