日本人の不安と希望
不安と希望 堀一郎 柳田国男(昭和53)pp.221-253
愛郷心とか愛国心といわれるものの中に、時として他を排することによって、あるいは他をさげすむことによって、自己独善の弊へ猪突したのは、常に存在不安に基づく劣性感がひそんでいるからにほかならない(p.228)。
日本人は仏教の厭離穢土、欣求浄土の思想に身をまかせながら、他界を身近な山中に求め、又は海上の常世に想定して、そこに永住せず、常に現世の子孫との交流を絶たなかった。だから、僧侶は盆のたびごとに檀家をまわって、来訪霊に功徳を捧げねばならなかったのである(p.248)。
こうした神霊―祖霊と子孫との絶えざる精神的な紐帯は、年中行事と年忌法要に支えられて、日本人の永続性の希望に一つの解決を与えてきたとみられる(p.249)。
インドに起こったという本地垂迹思想は、仏教とともに我が国にもたらされた。仏教の伝播受容の過程において、寺院が神社境内や隣接地に営まれ、神社が寺院内に鎮祭せられた(p.259)。
日本人はあらゆる神仏に頭を傾けはしたが、ついにその一つをとって他を斥ける態度はとりえなかった。この特異な信仰態度に現れた性格は、国民性の基本的露呈であり、日本文化の形成史における基本的な受容的性格を特色づける素地ともなったであろう。そこに日本人と日本文化の大きな長所的特徴と模倣性の高い他動的な性格を形づくる欠陥をも内蔵するに至ったとみるべきではないだろうか(p.253)。
ノート
「愛国心」のもとは「存在不安に基づく劣性感」であるというのは、他からの侵略への疑心暗鬼が、ゆがんだ「愛国心」を産むということであろう。京都の北は若狭(わかさ)であるが、北の山々を中国やコリアからの防御地域とみたから、かつては京都のことを「山城」(やましろ)と呼んだのであろう。日本は中国に対して、脅威、尊崇、小中華主義の念を持っていた(拙著(2015)同(2022)参照)。
日本人は古来、舶来の宗教、品々を珍重したが、それらの一つにのめりこむことはなく、受容に長けていても自発性のないものしか生みだしえなかったという(上記)が、運慶、快慶の彫像は極めて日本的な雄渾の彫像ではないだろうか。また、葛飾北斎らの浮世絵はフランスの印象派に多大なる影響を与えている。文化の客観的評価は難しいが、事実を曇りのない目で見るべきであろう。本源から派生する、本源しか認めないというのは、自民族・自文化中心主義の最たるものであろう。今の時代には合わない。
2022.5.12 木