藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

恩 おん

 

   恩 おん
 目上の人から受けたありがたい恩恵。目上の人がかける情(なさけ)。武家社会に主君が従 者に土地を与えたことが語源。日本の社会は基本的に縦社会であると言われてきた。
   目上の者は目下の者の面倒を公私にわたって見る代わりに、目下の者は目上の者に恩を感じて敬意を払って、忠 誠を尽くすという関係が縦社会の基本である。人から受けた恩を忘れることは「恩知らず」と非難され、倫理上許されない。もっとも徐々にそうした傾向が薄れつつあることも事実である。アメリカナイズの影響である。「恩を返す」、「恩に着る」、「恩を仇(あだ)で返す」、「恩を売る」などといった慣用句(イディオム)がある。(拙著私家版(2018)所収『日本文化概論Ⅳ―キーワード篇―』より)


  ノート
 「侍(さむらい)」という言葉は、「さぶらう」=「お仕え申し上げる」を意味する言葉で、もともとは、「主君のそば近くに仕える者」を指していたが、平安中期ごろから武力で宮中などを警固する者を指すようになり、鎌倉・室町時代には上級武士を、江戸時代になると、幕府の旗本や諸藩の中小姓以上の身分を指すようになる。現在では、「武芸をもって主君に仕える者の総称」として、「武士」などと違いなく使われている。(https://business-textbooks.com/bushi-mononohu-samurai-musya/閲覧)
  
 侍と主君は、主君が所領安堵し、それと引き換えに侍が恩を感じて忠をつくす、という本来は、ギブアンドテイクの関係である。それが、形式化し、主君への忠が絶対化するのは、身分制度の確立した江戸時代である。それも1650年から1700年までぐらいのことであろう。この間に、江戸幕府は慶安御触書、武家諸法度、禁中並公家諸法度など、おびただしい法を制定する。人々をがんじがらめにしてしまうのである。
 赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日 (旧暦) 1703年1月30日)のことである。主君への忠を取るか、幕府への忠を取るか、進退窮まって、赤穂浪士は上野の寛永寺で切腹する。(より正確には、吉良を打ち取った際には、切腹することを決めていた。民衆は、赤穂浪士の主君への「忠」を讃嘆した。一種の幕府批判である。江戸幕府のじわじわとくる50年来の干渉への反発もあったであろう。そのことはテレビドラマ、映画の『忠臣蔵』は何も触れない。)
 天皇への無窮の恩を絶対化したのは、吉田松陰の『孔孟余話』であると非難したのは、福本イズムの福本和夫である。この人は、治安維持法で捕まり、獄中生活20年、その中で浮世絵のフランス印象派への影響を述べた研究をしている。比較文化学の先駆者である。同じ思想を持っていてもいろんな人がいる。
                               
          2022.5.18   水

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