藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

   

     和     柄        
        
      日本で初めての成文憲法を作った聖徳太子は「17条憲法」(604)第1条で「和
をもって尊しとなす」と言っている。その憲法の根幹をなす思想の一つが「和」であった。この憲法はその後の律令国家の思想的土台を形成した。当時は米作農業が国家の経済の根幹となりつつあり、その農業にとって最も重要な共同作業の精神として和が最重要視された。日本人が自己主張や議論、対立などよりも和を大切にする心情にはこうした歴史や文化の背景がある。
 和は「日本」を意味する文化的概念を表すこともある。和風、和服、和食などはその意味で使われている例である。「和魂洋才」や「和洋折衷」ということばもある。前者は日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させていくという意味の言葉である。古くから使われていた和魂漢才(わこんかんさい)をもとに作られた用語(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)である。後者は日本と西洋のものをうまくミックスして調和あるものを作るようにすることを指して言う。もっとも普遍的なものには日本と中国、西洋の違いはないという考えもあり陰陽五行で神道を解釈しようとした山崎暗斎や普遍性に日本、西洋の違いはないと考えた横井小楠のような人も日本の歴史には存在する。(拙著 私家版(2018)所収『日本文化概論Ⅳ―キーワード編―』より)


   ノート
 「和」というのはそれ自体で存在するわけではなく、「漢」や「洋」との関係で成立するものである。菅原道真が遣唐使を廃止したのが。894年。それから国風文化が盛んになったというのが私の習った日本の歴史であるが、最近の研究では、むしろ遣唐使の廃止の後の方が「漢」の書物はたくさん輸入されていたことがわかってきた。日本の中国化と中国の日本化は同時並行で行われていたということになる。「国風文化」という言い方自体、政治的な色彩が色濃いと指摘する研究者が最近は多い。
 皇室の陵墓参考地の発掘がなされない理由を考えると、「和」や「国」というものも政治的観点から大きな影響を受けるものであると考えるのが妥当なようである。天皇は○○人の末裔だった、天皇は○○人だったということになれば、ビックリクリクリクリックリだから、陵墓参考地は絶対、発掘させないのだということは前から言われていることだが、逆に宮内庁、国というのも大きな権力を持っていると思う。民衆の多数意見がそれを支えているのだろうが、日本人は古く行われているいることは大事にして今も行うようである。日本人はそのことをあまり深く追求しない。これも「和」の心なんでしょうか?
                               
         2022.5.24    火

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