藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

日本人の集団帰属意識

       

     日本人の集団帰属意識
     日本人が個人より集団を重視する傾向が強いことはアメリカの E・O ライシャワー教授をはじめ多くの研究者によって指摘されてきた。日本人の集団帰属意識は稲作文化の歴史とかかわりがあるとする見方も多くの人によって認められている。水田稲作農 業では近隣同士、田植や稲刈などの共同作業をする必要があったし、田に引く水の割当てなども近隣同士の配分の秩序が必要であった。農民は農村への帰属意識を持たざるを得なかった。また、中国から伝わった儒教道徳は、「」によって親への信頼、服従を教え、その結果、人々の家への帰属意識が強まった。また、儒教は支配階級である武士に「」によって主君への忠 誠を教え、その結果、武士は自分の属する藩への帰属意識を持つようになった。
  もっとも、現在の日本では個人意識も強く、ベストセラーとなった村上春樹の(1987)『ノルウェーの森』では自分の趣味や感覚、気持ちを生きる上で、最も重要なものとする個人意識の強い若者が描かれ、多くの共感を呼んだ。政治や社会体制にほとんど関心を持たない若者が描かれ、従来、描くことがタブーであった事柄も赤裸々に描かれた。日本にはそうした個人意識の尊重が歴史的に存在していたように思われる。江戸時代の町民文化や石田梅岩の心学による町民の矜持の意識など、その基盤である。(拙著 私家版(2018)所収『日本文化概論Ⅳ―キーワード編―』より)


   ノート
 文化は前代のものを残しながら、新しい時代のものによって、変わる面と変わらない面の両面がある。魯迅の『文化偏至論』が想起される。集団帰属意識は前代のものであるが、新しいアメリカ風の「個人」意識もあまり行き過ぎると、個人の中に閉じこもり、煩悶することになる。昨日もアメリカで銃乱射事件があり、20数名の尊い生命が犠牲となった。バイデン大統領もどうしてアメリカでばかり銃乱射事件が発生するのかと頭を抱えている。銃規制ができないところにアメリカの闇がある。つまり、人が信用できないのだ。バッファローを食べつくし、先住インディアンをだまして特別居住地に追いやった「罪の意識」にさいなまれて、精神に異常をきたすのか。
 日露戦争の始まる前の1902年ごろには日本でも一高生の藤村操が華厳の滝に投身自殺し、煩悶の時代と言われた。藤村操は、自殺の三日前に、漱石の授業を受けていて、漱石は授業態度のよくない藤村を厳しく叱った。そのことを気にしてか、漱石は、藤村の自殺後、藤村鎮魂の新体詩を書いている。
                                 
                               2022.5.26   木

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