藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

書道  しょどう


  書道
 毛筆 もうひつ と墨 すみ で文字を書く芸術で、それによって精神的深みや美を表現する。元来、中国から伝わったもので、日本では表意文字の漢字に加えて、日本で発明した表音文字の仮名を組み合わせて、独特の文字芸術を作り上げてきた。書体には標準的な楷書 かいしょ のほかに、少し崩した行 書 ぎょうしょ、更にもっと崩した草書 そうしょ などがある。年賀などを除いては、毛筆で文字を書くことは日頃はあまりないが、小学校の授業では書道の時間が設けられている。正月2日に、めでたいことばや縁起 えんぎ のよい詩歌 しいか などを毛筆で書く「書き初ぞめ」は現在も小・中学生などの間で行われている。(拙著 私家版(2018)所収『日本文化概論Ⅳ―キーワード編―』より)


     ノート
 三筆。三蹟。能書家として知られる小野道風(おののみちかぜ。通称:とうふう。894~966)。日本の書道史ではこの道風と、藤原佐理(ふじわらのすけまさ・通称:さり・944~998)、藤原行成(ふじわらのゆきなり・通称:こうぜい・971~1027)の三人を≪三蹟≫と呼び、それぞれの墨跡を野跡(やせき・小野の"野")・佐跡(させき・佐理の"佐")、権跡(ごんせき・行成が権大納言であったので。)と称し尊んでいます。 また、この≪三蹟≫以前にも、≪三筆≫といわれる三人の能書家がいます。これは空海(くうかい・774~835)、嵯峨天皇(さがてんのう・786~842)、橘逸勢(たちばなのはやなり・?~842)をさします。
 この六人はいずれも平安時代の9~10世紀に活躍した人物ですが、≪三筆≫の時代はまだ何事も中国を手本とし、書風も唐風(からふう)であったのに対し、≪三蹟≫は国風文化(こくふうぶんか)の台頭とともにうまれた和様(わよう)と呼ばれる日本風の書となっています。(ウィキペディア閲覧)
 石川九楊(二〇一七・一〇)『日本論 文字と言葉がつくった国』講談社 講談社選書メチエ 六五三 は、加藤周一(一九九五)『日本文化の雑種性』は日本文化を雑種だというが、石川九楊氏は「重箱読み」や「湯桶読み」といった、一部、雑種化したものもあるが、基本的には漢字語とひらがな語、そしてカタカナ語の混合種が日本語であり、そのことが日本文化の基底となっている(五三頁、五六頁、五九頁)と言う。
 日本文化を縄文文化と弥生文化に分ける二分法は岡本太郎や梅原猛、谷川徹三に共通しているが、石川氏は前者は無文字の文化であり、後者は有文字文化で「両者はそれぞれ次元をまったく異にする基盤に立っており、対比できるものではない」(七二頁)と書道家としての立場を基礎とし、そこから日本文化を考える。谷川徹三氏の「縄文的原型」と「弥生的原型」は印象的評価に終始しているとするが、谷川氏の主張による貞観の仏像彫刻と藤原の仏像の間の大きな差異は認め、それは「三筆」文化と「三蹟」文化の違いによるものであり、前者はひらがなが成立していない、和歌や和文をまだ生み出せないでいた時代の文化であり、後者はひらがなをつくり上げ、和歌が和文を自在につくり上げることができるようになった文化である(七二―七三頁)と述べている。
     石川九楊氏は異色の書道家で、トン、スーッ、トンなど書道のリズムを重視する。上記『日本論』も、漢字語とひらがな語、そしてカタカナ語の混合種が日本語であり、そのことが日本文化の基底となっているとし、世界の常識は左右対称であるから、左右非対称の日本文化は、世界で通用するには左右対称にしなければならないという。華道でも、前後の花をずらせるという中に左右非対称の日本文化は生きている。数寄屋造り然り、長谷川等伯の『松林図屏風』をどうとらえるか。日本文化は少なくともアニメはそのままで通用している。敵基地攻撃能力より、アニメや和食、わび、さび、一期一会、おもてなし文化で世界に貢献したほうがいい。日本が平和志向の文化国家だと世界に認識されたら、軍事力の増強による経済発展を目指さなくてもいいのではないか。                                
                               2022.6.1     水

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