藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1 錦の御旗に逆らうことを最も恐れた徳川慶喜は薩長に売られたけんかを買わずに江戸へトンずらした。すたこらサッサ。旧幕軍の士気はダダ下がり。

   

                徳川慶喜

                 二条城


1  錦の御旗に逆らうことを最も恐れた徳川慶喜
  慶喜は大政奉還によって、自分と藩とが公武合体体制で、天皇を支えることを考えていたが薩長そんなことは許さず、宮中クーデターを起こした。慶応3年(1867年)12月9日、いつもの朝廷の会議が終わって公家たちが御所から出てしまったあと、薩摩藩とその仲間の藩(土佐藩・広島藩・尾張藩・福井藩)の計5藩の兵が御所の門を閉じて幕府と親しい公家たちを締め出し、倒幕派の公家・藩士らが御所を占拠したしまう(長州藩は朝敵を解除されたばかりで不参加)。そして明治天皇の名で「王政復古の大号令」を発した
 王政復古の大号令は、「日本は天皇を中心とする政治体制に戻ったぞ!」という宣言のことで「いろんな物事を神武創業の昔に戻す」という理念が掲げられ、「明治新政府」による思い切った政治改革が断行された。要点は、幕府(および将軍)は正式に廃止、朝廷の摂政・関白も廃止。政権は「総裁」、「議定(ぎじょう)」、「参与」の3つの職(三識)で運営されるということであった。天皇はその政権の頂上に君臨する権威の象徴で、このとき天皇は孝明天皇から皇位を継いだばかりの16歳の明治天皇であった。16歳の明治天皇が一人で王政復古の大号令を発せられるはずがない。岩倉、大久保らの入知恵である。

 実際の政治運営にあたった三職のメンバーは、・総裁(有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう))・議定(仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)らの公家、島津茂久・徳川慶勝・松平春嶽・山内容堂ら)・参与(岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、後藤象二郎、福岡孝弟(ふくおかたかちか)ら)であった。
 そしてその日の夜に、新しい政権のもとでの最初の会議が開かれた。これが「小御所会議(こごしょかいぎ)」で、御所の中心である紫宸殿(ししんでん)のそばにある「小御所」という建物で行われた。
 会議の主題はやはり徳川慶喜の処遇についてで、岩倉具視や薩摩藩の西郷・大久保らの主張で慶喜の「辞官納地」が決まった辞官 (じかん)とは慶喜に与えられていた「内大臣」という朝廷の官職を辞めさせること。つまり「徳川慶喜は朝廷とはもう関係ないよ(朝廷の仕事につく資格はないよ)」という宣告で、納地(のうち)とは徳川家の領地を全部取り上げるということだから、これは大変な罰ということになる。 とにかく慶喜が二度と復活しないように、権力も富も何もかもむしり取ってしまおうという決意が表れている。
 しかし山内容堂や松平春嶽ら藩主経験者にとって、徳川慶喜は直接の主君筋にあたる人物で、仮にも将軍としてすべての武士の頂点に立っていた慶喜が大罪人のごとくに扱われることは、封建的価値観の中で生きてきた人間にとってすんなりと受け入れられることではなく、自分自身の存在意義にも関わってくる問題であるし、地位のある人間にとってはなるべく大混乱を招くような事態は避けたかった。
 彼ら大名級の人々は徳川慶喜を擁護し(もちろん、慶喜が新政権の中心となったあかつきには、自藩を取り立ててもらおうという期待もあった)彼らの主張により、辞官については「前内大臣」という肩書きを新たに許可し、納地についてもすべて没収ではなく半分だけにするというように、どんどん処分が甘くなっていった
 1967年12月28日三職会議で慶喜を前(さきの)内大臣と称することとし、旧江戸幕府の二百万両の返納は継続審議とすることとしクーデターを起こした岩倉具視や薩摩藩は批判され、追い詰められていく。
 
10月から薩摩が江戸に浪人を送りこみ、治安を乱していた。旧幕府は薩摩藩邸が浪人の本拠地であることを探知し、12月25日、小栗上野介などの強硬派が焼き打ちを命じ、実行させる。これが戊辰戦争の引き金となってしまう。
 薩摩藩邸の焼き打ちを知った大阪城の旧幕軍は勢いづく。朝廷の「奸臣」を打つため、決起することになる。1868年1月2日から3日にかけて、1万3000の旧幕軍が大阪城を出て、鳥羽伏見で3日夕方、開戦となる。鳥羽伏見の戦いである
 錦の御旗に逆らうことを最も恐れた徳川慶喜は万世一系の天皇があるからこそ、徳川家があるという尊王攘夷派、水戸藩の生まれ、しかも慶喜の母の実家は有栖川宮家で霊元天皇の子孫にあたり、十五代の徳川将軍の中で、このように天皇の血を色濃く受け継ぐのは慶喜しかいなかった。慶喜は天皇と争いたくなかったのである。慶喜の逃走もわからなくはない。福沢諭吉は『やせ我慢の説』で幕府軍、三河武士の徹底抗戦を主張し、不徹底な勝海舟らを批判しているが、自分は上野の彰義隊の戦いのとき、本所の辺に隠れていた「臆病者」(勝海舟がそう言っている)だから、いい加減な二枚舌野郎である。こんな男が一万円札になっていること自体、日本の教養のなさを顕現している。
 1868年1月6日午後9時ごろ、慶喜はひそかに大阪城を抜け出して、天保山から海路、江戸へ逃げ帰ってしまう。すたこらサッサ。旧幕軍の士気はダダ下がり。7日、慶喜追討令が発せられたが、大阪城では、将兵が続々と退却し、9日には城門で白旗が掲げられていて、10日、無事、官軍に引き渡された。   参考文献 一坂太郎(2017)。


 鳥羽伏見の戦いは要するに、薩長と旧幕府のせめぎ合い、いがみ合いである。そんなに簡単に権力は委譲されなかった。
 大政奉還の行われた二条城は、世界遺産となり、拝観料もどんどんアップしているが、大政奉還後、薩長と旧幕府はいがみ合いをして、鳥羽伏見の戦いを起こしたことは知っておくべきだろう。
 二条城と御所の間は馬で3、4分。二条城は、家康の京都宿泊所であると同時に、天皇の住む御所の監視どころなのである。
 徳川家康はリアリストである。天皇を信用などしていない。
 家光も後水尾天皇が起こした紫衣事件(1627)で幕府の取り決めのほうが天皇の慣例より上であることを明確に示している。寛永3年(1626年)10月25日から30日まで、二年かけて改修、整備された二条城への後水尾天皇の行幸が行われ、徳川秀忠と家光が上洛、拝謁したために、水尾天皇は俺のほうが幕府より上だと思ったのかもしれない。家光はぴしゃりと幕府が上のほうだと、紫衣事件の始末で大徳寺の沢庵和尚などを流罪にしている。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられている。
 二条城は極めて政治的なことが行われた城なんです。日本人、外国地観光客は、へえー、ほおーと言いながら、「大政奉還」の世界遺産、二条城を今日も吸い込まれるように、物見遊山で拝観に訪れています。世界遺産って、金儲けのためにグローバリゼーションを利用して、拝金ゲスが考え出した仕組みだと私は思っています。
 今日も二条城マジックで京都市にチャリン、チャリンと金が落ちる。京都市のために弁明しておくと、40年前には、草ぼうぼうだった二条城正面向かって右、北西側の所もきれいな舗装されたアスファルト道路となっていて、景観的にはすっきりしている。京都市の担当者の方々、ご苦労様。



 明日は 2  鳥羽伏見の戦い。



                             2022.9.15      木曜日

×

非ログインユーザーとして返信する