藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

「自然」とnature    柳父章の本を読んで考える

    

「自然」とnature    柳父章の本を読んで考える
 柳父章という人はユニークな翻訳論で知られている。岩波新書の『翻訳語成立事情』は、つとに有名で、ロングセラーである。外来語は「カセット効果」(宝石箱のように、何かわからないが、いいものとして珍重される、外来語の効果。)があり、最初に外来語の形が入ってきて、従来の意味と拮抗して、語の意味がリニューアルされるというのが柳父章の基本的な考え方である。
 例えば、「自然」という言葉は日本語では「おのずから」という副詞的意味で使われることが基本で(ex.自然に じねんに)、状態性をあらわす言葉であったが、nature という英語が入ってきて、自然法としての自然、自然科学の意味の自然、文学の自然主義の自然と、三つの自然の意味が元来の「自然」の意味に加わった。人為(主観)に対するnature(客観)は人為に対立するものであるが両立するものであり、元来の「自然」は主客未分の、主観、客観未分のもので両立しない。したがって、矛盾をアウフヘーベン(止揚)して、新しい、リニューアルした「自然」が出来上がったというのが柳父氏の考えである。新しい「自然」というのは、より客観性を具備した「自然」という意味なのか、柳父氏ははっきりとは述べていない。

 こうした翻訳論は、実証性が希薄であり、古い時代の翻訳論である。それに、語レベルのことしか述べていない。句レベル、文レベル、文章レベルのことが何ら述べられていない。
 翻訳論が盛んにならなかったのは、「翻訳とは何か」という規範性ばかりを論じていたからで、現実には、村上春樹の本が英訳されたり中訳されたりして、東野圭吾の本が日本でよりも中国で翻訳されてたくさん売れる時代である。国家などという抽象的な存在について、相変わらず、BSフジのプライムタイムは論じているが、古臭い権威主義のにおいがプンプンする。「なるほど、なるほど」と言ってる場合か。反町さん。
 新しい翻訳論は、過去の翻訳論を再点検し、実際の翻訳作品から帰納的に翻訳の類型を体系的に明らかにする必要がある。そのうえで、どういう条件の場合にどう翻訳されるのかという演繹的研究が必要である。これは難しいが……。さらに、広い視野で、原理的な翻訳論、日本語から外国語への翻訳論、外国語から日本語への翻訳論を、日本語と具体的目標言語の関係で明らかにしなければならない。大枠、そんなことを考えている。あと5年でそこまで行けるかどうか、日々のたゆまぬ努力を続けたいと思う。
 少し専門の話になりました。わかる人にはわかっていただけると思います。一部分でもわかっていただけたら幸いです。研究は日進月歩しています。怠けていると、取り残されます。最先端の研究を目指したいと思います。死ぬまで。 

 みなさん、同じでしょう。まともなひとは。死は必定。死ぬまで何をするかだとおもいます。

                              2022.9.17              土

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