藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

中国の自然」と日本の「自然」

  中国の自然」と日本の「自然」
「自然」という言葉は日本では元来「おのずから」という副詞的意味で使われることが基本で、状態性をあらわす言葉であったが、nature という英語が入ってきて、自然法としての自然、自然科学の意味の自然、文学の自然主義の自然と、三つの自然の意味が元来の「自然」に加わり、人為(主観)に対するnature(客観)は人為に対立するものであるが両立するものであり、元来の「自然」は主客未分の、主観、客観未分のもので人為と両立しない。したがって、矛盾をアウフヘーベン(止揚)して、新しい、リニューアルした「自然」が出来上がったというのが柳父氏の考えである。新しい「自然」というのは、より客観性を具備した「自然」という意味なのか、柳父氏ははっきりとは述べていない。(再録)
 では、東アジアで考えると、中国の「自然」と日本の「自然」はどう違うのだろうか。
 中国の「自然」はやはり老荘の「無為自然」であろう。「人為」に対する「無為」。孔子的、儒教的な礼や制度としての「人為」を否定するのが、「無為自然」である。陶淵明のような田園詩人も官を辞して、田舎に帰り、自然との一体感を至福とする。日本でも、陶淵明のような田園詩人は好まれた。自然との一体感、主客未分を重んじるのは日本と中国に共通する。日本と中国で自然と人間は一体である。少なくとも一体を志向している。(もっとも、中国の自然は日本の自然と比較にならないぐらい猛威を振るい、政治の治がさんずいへんであるように、水害への予防、対応は政治の最重要事であった。その意味では人為と自然は対立している。)
 しかし、と本居宣長は言う。基本的に、中国の「自然」は「無為」だが、「人為」を意識するもので、理屈っぽい。しかるに日本はそうではない。日本には「すめらみこと」(天皇)がおわしまして、「無為」とか「人為」とか言わずとも、おのずから調和がとれているのであると。『日本ロマン派批判序説』で、橋川文三氏はそういった趣旨のことを述べている。また、そうした考えに、戦前、日本人のインテリや大学生は「いかれた」と。戦争に行くには大義名分が必要である。しかし、本音を言えば、誰だって「すめらみこと」を精神的支柱として、戦地に赴き死にたくはないだろう、誰だって生命は全うしたい。国家ナショナリズムに気をつけろ。日ごろの外交努力を地道に行え。
 「敵基地攻撃能力」とか言う前に、戦前の歴史を比較文化的に学ぶべきである。戦前、日本は「神の国」であった。そのことを強調する研究者は少ない。理知だけでは歴史の真実は明らかにならない。
 歴史の研究家は資料中心主義で、大切なところを抑えていく研究ができていない。不誠実なのになると、自分に都合のいい資料だけを持ちだして論じている。金と地位が欲しいのだろう。ゲスである。


                                2022.9.18  

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