藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

2022.10.1 BS3 pm7:30-9:00 放送 『国交正常化日中2000年 戦火を超えて』後編

 1972年9月25日 田中訪中。周恩来が出迎える。
          北京空港で 田中角栄首相を出迎える周恩来総理
 
2022.10.1 BS3 pm7:30-9:00 放送 『国交正常化日中2000年 戦火を超えて』後編
 放送の構成と流れ 大要
 「政治より人と人のつながりが重要だ」浅田次郎、東京の街を歩きながら語る。
 日清戦争の修復、日中戦争の修復に多くの日本人、中国人の努力があった。
 “以民促官”(民をもって官を促す) 周恩来総理の決断、モットー
 日本はあこがれと贖罪の念を中国に持ち、中国は日中戦争への怒りを日本人に持っていた。
 1917年 周恩来来日。
 神田 漢陽楼 中華料理店 周恩来は故郷浙江省の料理“獅子頭”(ライオンの頭をイメージした、大きなミンチボール)が好物でよくおとづれた。
 撫順戦犯管理所 戦争犯罪人の日本人1000人を収容。 周恩来は「認罪教育」(罪を本人が認める教育)を行い、一人も死刑にしなかった。1956年、戦犯日本人は帰国後、日本で活動する。
 廖承志は周恩来の“民間先行 以民促官”の命で、対日業務の中心者として動いた。りょうしょうしは日本語に堪能。早稲田大学卒業。
 周恩来は①貿易②文化の交流の二つを推進した。
 1952年 日中民間貿易協定  日本に国貿促 できる。①
 1956年 日中文化交流協会 できる。②  中心は廖承志。
 1957年 中島健蔵を代表とする文化交流団訪中。周恩来は日本人を軍国主義者と戦争犠牲者の二つに分けたが、中国農村では反日意識が大きく、代表団の農村視察は困難を極めた。
 松山バレエ団訪中団 バレエ『白毛女』を上演。周恩来は高く評価。
 1957年 岸信介内閣成立 きしないかくは中国敵視政策をとり日中関係悪化。民間貿易断絶。
 1960年 安保改定反対運動盛り上がる
 周恩来。岸分断策として宮崎竜介(宮崎滔天の子)を通して、松村謙三を紹介してもらい、接触する。河野洋平は松村謙三に師事した。
 1959年10月 松村謙三訪中。 松村は周恩来の依頼で、経済通の高崎達之介を紹介。高崎は訪中して、周恩来に会い、高崎は鞍山製鉄所は技術が低いと忌憚のない意見を言い、周恩来は受け入れる。
 周恩来は再訪日の意思を高崎に伝える。
 周恩来は、1917年、留学して京都嵐山の大悲閣千光寺を訪れている。詩碑「雨中嵐山」「雨後嵐山」がある。周恩来は、1890年に完成した琵琶湖疎水によって発電し市電を走らせた京都に注目していた。
 1956年 大躍進政策の失敗。周恩来は日本の技術移転が必要と考え、松村謙三が訪中。
 1962年 半官半民のLT貿易協定調印。Lは廖承志、Tは高崎の略。ビニロンの技術移転。貿易面。
 文化交流面。新劇の訪中団。吉行和子の言辞。「仲良くするために行った。」
 1966年 文化大革命 始動。老舎入水自殺。
 米ソ対立、中ソ対立の中で、1971年 キッシンジャー訪中。米中接近。
 1971年 周恩来の部下が大平正芳に接触し、日中友好の必要性を訴える周恩来に大平が応える。
 1972年 田中角栄内閣成立
  上海バレイ団来日公演『白毛女』2か月間。宿泊ホテルはホテル ニュー・オータニ。数億円の赤字は財界の寄付等であがなわれた。
 孫平化が日本政財界の人士に会い、田中首相の訪日を歓迎する中国の意向を伝える。①賠償金請求権を放棄②尖閣島の領土問題には触れない という中国の考えを公明党が仲介して、田中首相に伝え、田中首相は訪中を決意する。
 周恩来は日中国交正常化の必要性を国民に訴えた。田中角栄は訪中の朝、松村謙三の墓に参った。
 1972年9月25日 田中訪中。周恩来が出迎える。
 周恩来「尖閣諸島については、今、話したくない」と言う。共同声明のため。
 1972年9月29日 日中共同声明調印 


 以民促官 周恩来の基本思想
 田中角栄「民間のレールに乗って、中国に来た」と伝える。
 周斌(ひん)(歴史的通訳をした中国側通訳)「両国民が現在、互いに好意を持っていないのが問題」
 浅田次郎「文化交流もたった一つの政治発言で台無しになる。政府と政府の関係ではよくならない。人間同士で付き合えば、未来は開ける。」


    ノート
  以民促官 周恩来の基本思想
 中国では、古来、官と民は対立し、官尊民卑の考えもある。官は銭殻(税金)と刑罰でだけ民に関与し、後は民の自由に任せる。それが中国的為政。内藤湖南もそう言っている。
 周恩来は民の活力により、官を動かして、日中友好関係を促進しようとした。アジア人同士、戦わず、と言う考えを持っていたのだろう。かつて「侵略」した日本に日中友好を言うのは、やはり度量が広い。日中友好を言うのは危険を伴っていたのに。
 今の日中の政治関係がよくないのは、ろくな政治家がいないからである。「自由で開かれたアジア太平洋地域」をでっち上げた人もいた。中国は民を食べさせなければならない。そこから動いていると考えられる。覇権主義とか言うのはアメリカの自己投影で、ゲスの勘繰りである面が強い。もちろん、ウイグル人権問題は肯定しない。


 私は昔から中国とは争わないほうがいいという考えを持っている。中国、日本の本をたくさん読んできたことが大きく影響しているが、中国関係の本は読む本が終わらないのである。一生かけても。それだけ広い。
 池袋の本場中国料理店の繁盛を見れば、民間の日中関係は悪くはない。
 ゲスマスコミのアメリカ忖度一辺倒中国報道に洗脳されている日本人が半分いる。
 中国の古典や江戸時代の日本人が愛した『唐詩選』などを読み、歴史の流れの中で、教養を深めて、日本と中国の比較文化研究を推動していきたい。心の通じる日中関係を築きたい。


 日中友好に尽力した民間人士よ、安らかに眠ってください。ありがとうございました。

 水を飲むときは、井戸を掘った人のことを忘れず。饮水时,不忘掘井人。



                          2022.10.2     

×

非ログインユーザーとして返信する