藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

方向を示す助詞 へ  に  さ

 

 方向を示す助詞 へ  に  さ
 1577年、天正5年ごろ、日本に来たイエズス会士ロドリゲスは『日本語小文典』で、日本語には方言によって「へ」「に」「さ」という方向を示す助詞に違いがあったと記している。岩波文庫『日本語小文典』山口謡司(2022)pp.128-129   参照。


  ノート
 なーる。(漱石『吾輩は猫である』の寒月先生?風に。)これで吉幾三の「おら東京さ行くだ」の「さ」の意味が分かった。『日本語小辞典』によると、関東では「さ」、筑紫では「に」といい、京都では「へ」と言ったとのことである。
 「へ」と「に」は、日本語文法、日本語教育で、「へ」は動作の方向を、「に」は動作の帰着点、到達点を表すが、動作の方向を表す「へ」は「に」で代替されることもあると説明されているが、『日本語小辞典』の知識があれば、動作の方向を表す「へ」が場所によっては「に」「さ」と言われていたことがわかる。
 こうしたことは言語学では通時的と共時的の違いとして論じている。現在の外国語教育は基本的に共時的で、通時的ではない。これはフランスのソシュールの影響で、「象牙の塔」に閉じこもって印欧祖語の研究をしていた学問世界にソシュールが異議を唱え、共時言語学が主流になった結果である。そのため、「私」は英語で  I         、中国語で  我  、スペイン語で  yo などという外国語教育が横行しているのが現状である。さらに、英語教育の影響で、どの外国語教育も発音の後、第一章は 自己紹介 である。多様性と言いながら、一元化に向かっているのは、グローバリゼーションと言いながら、アメリカナイゼーションが横行しているのと同じ現象である。ああ、拝金主義、効率主義とコンピューター主義のマリアージュのおぞましさよ。せめては読書の秋に書を読みて教養を広げんとぞ思う。


                       2022.11.3    木

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