藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

2019 米  『ランボー  ラスト・ブラッド』

    

 2019 米  『ランボー  ラスト・ブラッド』 2022.12.19 BS7 pm6:54-8:54
    あらすじ
   男が家庭を捨てて、蒸発した後、その兄(ランボー)が男の妻と娘の面倒を見て、馬の牧場を経営した。やがて、娘は大学に入学することになり、入学前の休みに、父親に会って、家族を捨てた理由を知りたいと、父親の住むメキシコへと向かう。父親に会うと、父親は「お前らのために生きるのが嫌になったんだ。二度と来るな。」と言う。意気消沈した娘は、ディスコに行き、悪党に睡眠薬入りの酒を無理やり飲まされて、人身売買の組織にとらわれ、それを知ったランボーが救出に向かう。結局、娘は死ぬ。
 最後に、ランボーの牧場に作られた地下道に人身売買組織の悪党どもが武装して来て、様々な残忍な手法でランボーが悪党を殺していく。待ち伏せして、爆薬を破裂させて殺したり、落とし穴に落として鉄の長い釘で串刺しにしたり、頭を先の鋭い鉄棒で刺し殺したり。圧巻は、悪党のボスの両手両足を弓で射抜き、動けなくしてから、「俺の痛みを思い知れ!」とボスの心臓を特大ナイフでえぐるシーン。


  ノート
 復讐譚である。日本の能に『曽我物』がある。復讐譚である。江戸時代に復讐は日本で認められていた。赤穂浪士の討ち入りは庶民が支持した復讐譚で、主君のための忠と幕府のための忠の間で矛盾を生じた赤穂浪士は自刃して矛盾を解消する。1873年、明治になってから仇討ち禁止令が出されるまで、日本でも仇討は認められていた。
 ランボーの復讐譚は、自己の怒りを超えていない。底が浅い。
 殺される人間は、きれいに死ぬわけではない。半身不随で生きていかざる得ない場合もある。映像として、底が浅い。この映画を見て、がっかりした人は多いであろう。
 最後の殺すシーンは、いつもの個人で悪党に向かっていく戦闘シーンだが、現実にはランボーのほうが射殺されるであろう。もうひとひねり、工夫が欲しい。
 それにしても、アメリカ映画はなぜあんなに簡単に次々と人を殺すのだろうか。いつ、人から襲われるかわからないという不安神経症にかかっているように思う。アメリカの歴史を見たら、そう思う。

                        

     2022.12.22   金曜日

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