藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

受身文と能動文

    
            日本語の間接受身=対応する能動文はない というのは、英語から見た見方。
 「泥棒が私の財布を盗んだ」って対応する能動文じゃね?という考え方もある。そういう考え方、日本語からの考え方をを英語教育では無視している。だから、文法は面白くないという事になる。要するに、「英語様」の言う通りというのが、学問、教育でも幅を利かせているという事です。


    受身文と能動文
 日本語と外国語を対照すると、日本語がモーダルな言語であることがわかる。モーダルとはモダリティ   modality  のことで、「話者の心的態度」のことである。
 能動文は「だれが何をした」という客観的事実を述べるのに対して、受身文、とりわけ日本語の受身文は、話者の視点、立場から述べられた文であることが多い。このことは日本語に、一人称代名詞> 人間名詞> 無生物名詞 という名詞のランキングがあるからで、「私は先生に~と言われました」というのが日本語で、「先生は私に~と言いました」とはふつう言わないのが日本語である。
 さらに「なんか」「なんて」「など」という表現が多いことも日本語がモーダルな言語であることを物語っている。「私なんかにはよくわかりませんが」と言った言い方をよくするのが日本語である。また、謙譲的な言い方をする点も意味、内容的に日本語的である。
 日本語は自己主張を中心とする欧米の言葉とは異なる。日本語はモーダルな言語であり、受身文にもそのことが反映している。そのことが日本語非母語話者の日本語受身文の習得を難しくしている。
 言葉の勉強というのは、学習者の母語との関係で行い、母語の独立性を重視しつつ外国語を教えるというのが、私の考える外国語教育です。そのことは自文化と外国文化についてもいえます。私はこれからの外国語教育は、学習者の母語との関係で行うべきだと考えています。少なくとも中級以上ではそうすべきでしょう。いつまでも「猿真似」では外国語学習は続きません。そうした人は外国語、外国の傀儡になるだけです。 



                           2023.2.27     月曜日

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