藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

漱石の諧謔性

       

      漱石の諧謔性
 夏目漱石という人は江戸の名主の家に生まれて、武士的な面と町人的な面の両方を併せ持っている、町人的な面の中には落語などの庶民文化があるというのは江藤淳氏の説である。
 確かに『坊ちゃん』の主人公、坊ちゃんの小気味いい啖呵や強がり、むきになるところは、落語の登場人物を彷彿とさせるものがある。
 おそらく、町人的な面の中に含まれるのであろうが、漱石のもう一つの特徴として、諧謔性 かいぎゃくせい がある。自分を自分であざ笑う精神である。
 落語家や漫才師には、諧謔を売り物にする師が確かにいるし、かつての横山やすしや漫談家のぴろき師などもそうした芸風を濃厚に持つ。
 漱石の諧謔性をよく表している俳句がある。痔の手術に行く前に見た、牛が屠られ(=屠殺され)に行く情景を漱石が自分の姿になぞられて自らをあざ笑った俳句である。


  秋風や 屠られに行く 牛の尻


 最後の牛の尻が利いている。自分の痔の個所と重ねて、自分も牛も大差ないなと自らをあざ笑っている。ただ攻撃的に人を批判するより、自己省察があり、深い認識がある。漱石にとって、文学は武士にとっての刀のような、真剣勝負の道具であった。漱石にはそんなことを言っているところがある。多分、近代の自意識の問題だろう。漱石は自意識にさいなまれ、神経衰弱になっていた。その中で最後に書いた『明暗』は現在読んでも、妙にリアルで、鬼気迫ってくるものがある。漱石が古くないのは、文明の問題を衝いているからだろう。


                               2023.2.28  火曜日

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