藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

     魂
 魂魄 こんぱく  という言葉がある。人が死んだら魂は天上へ、魄は地下へ行く。魄は骨となり、依り代となる。儒者はその二つを一つにして、故人の平安を祈るのが役目。儒教の考えだったように思う。元来、墓とはそうした儒教の考えに基づくもので、仏教とは関係がない。加地伸行氏の本『儒教とは何か』に書いてあったと記憶する。
 京都新聞 夕刊 2023.3.2 に鵜飼秀徳氏の「魂の行方」と題した「現代のことば」エッセーが掲載されていた。鵜飼氏はジャーナリストで僧侶。以下、内容要約。
 魂があるかどうかはわからない。しかし、魂の存在が「可視化」されたのが東日本大震災であったと氏は言う。震災後、1年が経過したころから、故人がコンビニで買い物をしていたとか、夜、誰かが家の周りを走っているが、人影は見えないという奇妙な話が聞かれるようになった。タクシー運転手も被災地で乗客を乗せ、降車の際に誰も乗っていなかったという不思議体験が震災後、続いた。
 鵜飼氏も被災地で供養などのボランティアをした僧侶にアンケートをとったところ、約31%、122人が「霊的な体験をした(聞いた)」と答えている。「まもなく大震災から12年、犠牲者の十三回忌を迎える。被災地では鎮魂の儀式が続けられる。」と鵜飼氏は文を締めくくっている。


     ノート
 肉体と精神・心は生きているときは一体だが、死ぬと人は確実に物体、物質だけになる。そのことは肉親や友人の死に直面したことのある人なら、実感していることだろう。葬式は個人がこの世を離れていったことを確認する儀式で、その儀式で生きている個人との区切りを一応つけるのが世の習わしだ。
 この世は生きている者の世界だが、時々、故人のことを思い出す。故人は人の心の中に生きていると言えばきれいごとか。それでも、故人は時折、私たちの心の中に、夢の中に蘇ってくるのだから、人が死んだらそれで終わりというのは嘘だろう。
 考えてみれば、記憶もその人の心の編集作用によって残っているものだ。その人がいいことを思い出す人か、悪いことを思い出す人かで、過去の記憶は異なったものになる。自分の精神のレベルは故人のイメージにも影響する。魂も自分の精神のレベルによって、さまざまなものとなるのではないだろうか。
 魂に関しては、猫の名前がタマだったり、「たまげた」(=魂が粉々になるほど驚いた)
という言葉がある。
 今、なすべきことをなす。それが安らかな魂を得る王道だと思う。


                             2023.3.8   水曜日

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